山川賢一検証blog

批評家・山川賢一(@shinkai35)の言動を検証するblogです。誤りのご指摘・ご意見はyamakawakenshoあっとgmail.comまで。

山川賢一の複素数太郎解釈について

 はじめに

 前回の記事は、複素数太郎の論法に焦点を合わせたものだった。

 私は複素数太郎の当該記事を読み、また複素数太郎の本垢も別垢「神宮はふり」もフォローしている。山川さんの以下の複素数太郎解釈には、「なんでこうなるの??」と大きな違和を感じる。

 そこで今度は、山川さんの解釈により焦点を当てた検討をする。先に付け加えておくと、山川さんがスクリーンショットで「前回の山川検証blog記事と今回の記事はここが矛盾している!」とやる事は、可能性は低いがありそうである。とはいえ「山川賢一」でググる本人のblog を差し置き、このブログが3位に出てくる(2018/07/14,15時現在)謎の現状で、本ブログのPVが多少増えてしまいそう。もちろん私が前回記事から考えを改めることもあるでしょう(もちろん、単に曲解されることも)。

 

 

【論じられている複素数太郎の記事】

ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか - ひとなぐりこけし

 

1 10個くらいに分割した後で指摘

  まず山川の上記主張を短い文にそれぞれ分解・リライトしてみた。(全部使うわけではない)

 

(1)複素数太郎はヴィーガニズムを人間の定義困難性によって正当化している。

 

(2)複素数太郎は、従来の人権主義の弱点は「人間の定義困難性」であると主張している。

 

(3)複素数太郎は、ヴィーガニズムは(2)の弱点を克服する説であると主張している。

 

(4)複素数太郎のロジックは、反動物愛護派の「すべり坂論法」に似ている。すべり坂論法は「「生物学的人とそれ以外」というわかりやすい基準でなく「パーソンとそれ以外」という不明瞭な基準を採用すると、障碍者が人間扱いされなくなったりする危険がある!」という。


(5)複素数太郎のあの論考だと、ヴィーガニズムはたんに人と動物の差別をなくせという主張であるかのように扱われている。

 

(6)じっさいのヴィーガンは、意識の有無など別の基準で道徳的取扱いの対象となるか否かを分けている。

 

(7)ヴィーガンはより明瞭な定義の難しい区別へとあえて移行している。

 

(8)伝統的な人権主義は、生物学的な人のみを道徳的に取り扱う。

 

(9)ヴィーガンは、意識の有無などの諸条件で、パーソンとそうでないものを分ける。

 

(10)ヴィーガンは伝統的人権主義より「境界のはっきりしない区別」を採用している。

 

(11)複素数太郎はヴィーガニズムは「人間の定義困難性」を克服していると主張する。しかし実際のヴィーガンにおける人間はより境界のはっきりせず、明瞭な定義の難しい区別をしている。

 

 (1)に関して。

(1)複素数太郎はヴィーガニズムを人間の定義困難性によって正当化している。

まず記事の冒頭で複素数太郎は、自分はヴィーガンでもフェミニストでもないと断っている。これが彼の「立場」。次に山川は、(a)「ヴィーガンの使う論法を援用すること」と(b)「ヴィーガニズムを正当化すること」の区別をしていない。複素数太郎は(a)を行ったが、(b)は行っていないと考えるのが妥当だ。なぜなら冒頭で自分はヴィーガンではないと述べているし、【追記】においてヴィーガニズムの価値観にも論法の一つにも、反対しているからだ。

 

 (3)に関して。

(3)複素数太郎は、ヴィーガニズムは(2)の弱点を克服する説であると主張している。

山川は複素数太郎のヴィーガニズム解釈を、(5)「ヴィーガニズムとはたんに人と動物の差別をなくせという主張」だと解している。

 よって山川によると複素数太郎は、ヴィーガニズムは「人と動物の差別をなくせ」と主張することで、(2)従来の人権主義の「人間の定義困難性」という弱点を克服すると主張している。意味が明瞭ではないが、やはり山川は「人間の定義困難性」に関する複素数太郎の背理法っぽい論法(※前回記事参照)を、特定の思想的「立場」と混同しているのではないかと見られる。

 ある論法を援用することと、なんらかの主義主張・思想的「立場」に自分が身を置くことは別の話である。例えば「フェミニストの誰々はAであると主張するが、別の箇所では非Aのように振る舞っている」という型の指摘は、何もフェミニストに対してのみ使えるものではない。また自身が反フェミニストの「立場」にいないと使えないものではない。不整合性や矛盾と呼ばれる状態があれば、誰がどんな主義主張に対しても用いることができる。

 

 (6)と(7)と(9)と(10)と(11)に関して。

(6)じっさいのヴィーガンは、意識の有無など別の基準で道徳的取扱いの対象となるか否かを分けている。

(7)ヴィーガンはより明瞭な定義の難しい区別へとあえて移行している。

(9)ヴィーガンは、意識の有無などの諸条件で、パーソンとそうでないものを分ける。

(10)ヴィーガンは伝統的人権主義より「境界のはっきりしない区別」を採用している。

(11)複素数太郎はヴィーガニズムは「人間の定義困難性」を克服していると主張する。しかし実際のヴィーガンにおける人間はより境界のはっきりせず、明瞭な定義の難しい区別をしている。

山川は分かりやすい文章を書く人であるように見られている。しかしこれらが明晰な書き方であると私は感じない。この点を以下で説明する。

 山川によると、ヴィーガンはパーソンとそうでないものの区別を「意識の有無などの諸条件」で行っている。これは「定義の難しい区別」であるとも述べる。ところで山川は、上で「意識の有無などの諸条件」と明確に書いて、言語的に定義・区別できていたはずではないだろうか?本当は「意識の有無」の定義が困難なのではなく*1、他人の「意識の有無」を実際に観測することが難しいと、山川は言うべきだっただろう。揚げ足取りみたいだが、言葉使いに関する私の指摘が正しければ、ヴィーガンが「より明瞭な定義の難しい区別へとあえて移行している」とする山川の解釈は、間違いである。適切に書き直すなら「より観測の難しい区別へとあえて移行している」となる。

 前提に疑問を投げかけると、「意識の有無」は本当に観測困難なのだろうか。これは哲学的にありふれた問題ではあるが、日常的にはわれわれは他人に「意識がある」「意識がない」という事を、振る舞いなどを根拠に判断して、主張する。誰かが倒れていて呼びかけに反応しなければ、意識がないと判断する。このとき定義はもちろん観測においても大きな困難はない。哲学を脇に置けば、判断を間違える事はそんなに多くなさそうだ。このように意識の有無の観測困難性の見積もりは、論者の語りたい事によりかなりの幅を持つ。ヴィーガニズムが必ず抱える困難とは言えないのではないか。

 従来の人権主義の弱点が「人間」という言葉の定義困難性にあったと山川的に仮定しても、定義困難性の問題は、ヴィーガニズムの抱えうる意識の観測困難性の問題とは別である。

 加えて、「感覚の有無(や機能の仕方)でパーソンとそれ以外を区別するならば、「感覚障碍者*2はパーソンではないことになる」といった論法のほうが複素数太郎的である。この場合、感覚の言語的定義が明瞭で、かつ観測が容易であったと仮定しても、複素数太郎的問題意識が生じる。下記。

もうひとつは、ヴィーガンが動物と植物を分ける際に用いる論法――たとえば “感覚” にかんする科学的根拠の提示――もまた、アンチヴィーガンが “人間” 概念の内外を画定するときと同様、ある症状を持った障害者が排除されかねない、一歩間違えれば優生思想に転じるようなものである、という理由だ(もちろん、僕が不勉強なだけでその批判への応答は用意されているのかもしれない)。

ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか - ひとなぐりこけし

  そのため複素数太郎の記事に対し、言語的定義の「明瞭さ/不明瞭さ」を焦点とした山川の読みは、やっぱり大きく外している。

 また哲学的にはともかく、医学的に「感覚障碍」を診断する事はそれほど困難ではないように思う。つまり定義・観測において比較的明瞭である。しかし複素数太郎的問題意識は生じる。複素数太郎の論が、山川が拘る「明瞭な定義(=よい定義)」をゴールとしていない事は、記事を読むと分かる。

 そもそも複素数太郎が「ヴィーガニズムは従来の人権主義の弱点を克服する」(3)(11)旨を、記事で述べているように思えない。複素数太郎は【追記】で、ヴィーガニズムの論法もまた「ある症状を持った障害者が排除されかねない、一歩間違えれば優生思想に転じるようなものである」と評している。

 

 (4)に関して。

(4)複素数太郎のロジックは、反動物愛護派の「すべり坂論法」に似ている。すべり坂論法は「「生物学的人とそれ以外」というわかりやすい基準でなく「パーソンとそれ以外」という不明瞭な基準を採用すると、障碍者が人間扱いされなくなったりする危険がある!」という。

山川の『実践の倫理』解釈によると、複素数太郎の「ロジック」は反動物愛護派が使うすべり坂論法に似ている。この箇所は、まず「障碍者が人間扱いされなくなったりする危険がある!」という結論部のみは、確かに複素数太郎の記事と反動物愛護派に共通している。しかしこの部分の類似のみでは「ロジック」にならない。

 他の記述に関して。「ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか」のゲノム論を踏まえるなら、複素数太郎は「生物学的人とそれ以外」の区別が「わかりやすい」基準であるとは考えても、倫理的問題を生じないとは言わないだろう。この点で反動物愛護派と複素数太郎の認識は異なるのではないか(山川のツイートでしか知らないが)。

 残った部分をつなぎ合わせると、「不明瞭な基準を採用すると、障碍者が人間扱いされなくなったりする危険がある!」という主張を作れる。しかし複素数太郎は「ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか」において、「不明瞭な基準を採用すること」で問題が起きると主張したいのではないだろう。なぜなら、ゲノムによる定義が分類方法として明瞭であればこそ、複素数太郎は「人間とそれ以外の動物は、ゲノムを調べてやることでうまく分類することができそうだ」と述べる事ができるからである。問題は、ゲノムによる“明瞭な”境界設定が「副作用」的に、遺伝的疾患をもつ者や発達障害者を「標準的人間」から区別し、その区別を理由にした価値・権利的別もの扱いが行われる危険がある点である。誰かが道徳的配慮の対象となる「パーソン」から一段劣る「準パーソン」などとして上記の人々を位置付ける理由にゲノムを用いないとは限らない。

 これは事実と価値を混同した、倫理を自然化する架空の論者を勝手に想像した、空理空論だろうか。歴史を振り返ろう。例えば我が国で1940年代に成立した国民優生法は、「悪質ナル遺伝性疾患ノ素質ヲ有スル者」の増加を防ぎ、「健全ナル素質ヲ有スル者」の増加をはかり「国民素質ノ向上ヲ期スル」ことを目的とする。実際に遺伝的疾患者などに対する不妊手術が行われた。国民優生法の優生思想は、戦後優生保護法にも受け継がれた。

(【参考】優生保護法母体保護法/国民優生法 http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/8Y/yu_eugenic_protection_act.html

 

よって過去に実例はある。全くの空理空論ではない。歴史と観察を踏まえると、我々が「分類」と「欠陥品扱い」における意識的・無意識・明示的・暗示的な「関連づけ」をしていない/今後はしないと前提するのは危うい。こうした歴史がどれだけ念頭にあったのか。いずれにせよ複素数太郎の「隠れた優生思想をあぶり出す」試みが的外れとは言えない。「不良な子孫の出生防止」を掲げ、我が国で障碍者に対する「強制不妊手術」を定めた優生保護法がなくなったのは1996年のことで、大昔ではない。

(【参考】 “私は不妊手術を強いられた” ~追跡・旧優生保護法~ - NHK クローズアップ現代+ )

 

2 終わりに

 使わなかったパーツがあるかもしれない。

*1:それとも山川には、「意識がある」という言葉と「意識がない」という言葉の区別が難しいのだろうか。それで哲学的相対主義を批判していたのならば片手落ちとなる。

*2:例えば遺伝性の疾患、先天性無痛無汗症では「全身の温度覚(熱い冷たいを感じる)と痛覚(痛みの感覚)が消失」するそうだ。http://www.nanbyou.or.jp/entry/4360