山川賢一検証blog

批評家・山川賢一(@shinkai35)の言動を検証するblogです。誤りのご指摘・ご意見はyamakawakenshoあっとgmail.comまで。

複素・山川のヴィーガニズム論争について

 

 「ヴィーガニズム」に関する件で、山川賢一さんが複素数太郎を猛烈批判している。たまたま読んでみると山川が誤読している可能性が高かったので、指摘する。

 

 

 

あすかいさんの言及で関心を持ったのだが、山川のアカウントに行くと複素数太郎を叩き潰すためにRTを多用して非常に読みにくい。本人も以下のように言っているので、これらのツイートを元に論述を行う。

 

 

 発端となった記事は複素数太郎の「ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか」である。

sutaro.hatenablog.jp

 

1.複素数太郎の論述はどういうものだったのか?

 複素数太郎によると、「もともとの問いは「フェミニストは乳製品を食べてもよいのか?」」であり、「ヴィーガンRac氏からフェミニストのシュナムル氏に発せられたもの」だった。具体的には以下である。

 

これは突飛な問題提起――たんにその場をかき乱すためだけのもの――に見えるかもしれない。彼ら(ヴィーガン)の論拠はこうだ。

①乳牛は人間によって性交を管理され、生まれてきた子供は取り上げられてしまう。これを生産性が維持できなくなるまで何度も繰り返す。

②これがもし人間の女性についての事実であれば、フェミニストは必ず批判するだろう。

③よって、フェミニズムを徹底するならこのような生産方法を許容すべきではない。①と②は端的に事実である。さて、これらから③を導くものはいったいなんなのか。

 

複素数太郎「ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか」より引用)

 

 まずは上記記事における複素数太郎の論述を要約する。もし私の解釈が正しければ、山川は複素数太郎の記事を誤読している。

 記事における複素数太郎の論法の基本的発想は、背理法またはそれに似たものである。「人間と動物を区別できる」と仮定し、その根拠を検討すると倫理的に問題が生じることを示す流れだ。言い換えると「これって不都合じゃない?」という違和感が生まれる。

 私の感想だが、人間とは倫理的な定義とそれ以外の定義の複合であることが示唆されてもいる。

 まずはじめに注意しておかなくてはならないが、複素数太郎は「人間と動物は区別できない」と主張したいのではない。実際、彼は人間と動物を区別する方法をいくつか「提案」している。何らかの手法を用いれば、「人間と牛」は区別できる。もし複素数太郎の主張が、「人間と動物は区別できない」というものであったならば、彼がゲノムやらを持ち出す論述は無駄である。無駄なことをえんえんと書くわけはないのだが、山川の理解はここで終わっている。

 

山川は他にも、複素数太郎は「人とそうでないものは厳密には区別できない」と主張した*1旨を述べている。

 また山川は「ヴィーガニズムは従来の人権主義の弱点だった「人間の定義困難性」を「克服」する」という説を、複素数太郎が主張したとする。しかし【追記】で複素数太郎は同様の定義困難性がヴィーガニズムに生じうる、また障害者差別につながりうることを指摘している。つまり山川の「克服説」が誤りである。

 

 複素数太郎が主張したいこと、問題意識は、人間と動物を区別するために提案された手法を検討すると、別の領域において倫理的に不都合が生じる、ということにある。具体的に説明する。

 

提案(1):ゲノムの差異により判別する

「標準的なヒトゲノム」みたいなものを仮定できるのかもしれない。それで人間と動物を区別すればいいのでは?

→困った点。「標準的なヒトゲノム」を仮定したとき、これに対してダウン症やクラインフェルター症を患った人のゲノムは差異がある事になる。それゆえ牛と人間を区別できても、同じ基準でこれらの人々を標準的人間と区別することになる。それは倫理的な扱いにおいて人間と動物で対応を変えること、差異(差別)の根拠にもなりうるだろう。(フェミニストがアイスを食べてもいい論拠にも)

 

提案(2):人間特有の能力によって判別する

複素数太郎曰く「人間特有の能力として最もよく挙げられるであろうもの、それはコミュニケーション可能性だ」。

→困った点。自閉症スペクトラムなどの一見してわからないような “コミュニケーションに困難を抱えた人”が排除されてしまう。

 

以上二つの分類手法を検討し、複素数太郎は、これらは倫理的な問題を生じうるとする結論を導いた。繰り返し注意を促すと、彼は「人間と動物」を上記で分類している。それ自体は問題ではない。分類できないという話ではない。倫理的な扱いとの関連で、上記手法による分類に問題が生じるのだ。

本人によると、「“人間” の定義困難性にかんする議論は隠れた優生思想をあぶり出す」。これが記事の議論の大きな狙いである*2

 

2.複素数太郎はヴィーガニズムを誤解しているのか?

 山川によるとヴィーガニズムは「意識の有無などの諸条件でパーソンとそうでないものを分ける」という立場だそうだ。複素数太郎は記事でヴィーガンを擁護しているっぽいが、ヴィーガンの立場と矛盾するじゃないかというわけだ。また山川は「複素数太郎は人間の定義困難性をヴィーガニズムが克服したというが、実際のヴィーガニズムも定義困難性を抱えているので矛盾する」と言いたげだ。これに関してはあすかいさんも指摘している通り、複素数太郎の記事をまるで読んでいないようだという感想を山川に抱かざるを得ない。(本記事1.「つまり山川の「克服説」が誤りである。」のくだり参照)

 

 

 話題を変える。1.で検討した背理法は、「感覚や意識の有無でヒトと動物を区別する」という分類手法(提案3)に依拠しているわけではない。私の理解では山川は上記提案3に近いことのみをヴィーガンの立場とし、それと全然違うという理由で複素数太郎のヴィーガン解釈を批判している。

 これに関して、複素数太郎は

(1)「取り上げた立場はヴィーガニズムの定説というわけではないという声が挙がっているが、この記事では今回の議論でヴィーガン側が主に用いていた論法群の中でもとくに整合的なものをピックアップするに留めている」【追記1】

と述べている。

 また提案1と提案3を組み合わせて主張する事も、提案2と提案3を組み合わせて主張することもできる。例えば「意識がありゲノムが標準的なもののみが人間であると定義する」「感覚がありコミュニケーション能力が標準的なもののみが人間であると定義する」。逆に提案1や2を批判しつつ提案3を受け入れることもできる。

つまり色んな立場を構築可能だ。

矛盾するとは言えない。

 複素数太郎は「ヴィーガニズムは素朴には “種差別に抵抗する思想” と説明できる」と簡単に述べる。複素数太郎とヴィーガンがこの記事で共有していると前提する、その前提で読解する必要がある性質は、種差別に否定的である、という点のみではないかと思う。

 繰り返すが、山川が思うような「境界がはっきりしない」とか「する」という立場それ自体が問題なのではないのだ。ある分類手法を採用したときに起こる倫理的問題を考えてみましょう、という点が重要なことだと私は思う。

 

 最後に、検討範囲は上記複素数太郎の記事と山川の上記ツイートのみなので、何か間違っていたらご指摘お願いします。

 

追記1】

 私の書き方では「複素数太郎って人は、特定の分類方法と倫理的規範を混同しているのでは?」等の指摘がありそう。複素数太郎さんの別垢(神宮はふり)で本人の見解を羅列してみる。

 

1.倫理の「自然化」について

 

 

 

 

 

2.ヴィーガンやシンガーについて

 

 

 

 

 

 【続編記事】

山川賢一の複素数太郎解釈について - 山川賢一検証blog

*1:複素数さんの場合①「人の苦痛は問題視し、動物での苦痛は問題視しない、という区別をする根拠はない」②「人とそうでないものは厳密には区別できない」というロジックがチャンポンになってる気がしますね。ヴィーガンの多くは①を主張してるが、複素数さんは②を主張してるのでは」https://twitter.com/shinkai35/status/958248787213828096

*2:追記2】