山川賢一検証blog

批評家・山川賢一(@shinkai35)の言動を検証するblogです。誤りのご指摘・ご意見はyamakawakenshoあっとgmail.comまで。

反証主義から遠く離れて

  当ブログでは山川賢一が、テキストにおける自分の立場に都合の悪い記述に関して、「真面目に読んでいれば目に入ったはずなのに、なぜかその箇所を全く無視している」場面を二つ取り上げ、批判した。

 

山川賢一の「論証のやり方」について - 山川賢一検証blog

山川賢一のウォーフ解釈:ウォーフにおける「普遍的認識」 - 山川賢一検証blog

 

 ところでGoogleで「山川賢一」を検索すると、7番目に「山川賢一検証blog」のトップ画面、8番目に上記記事「山川賢一の「論証のやり方」について」がランクインする(2018/2/25アクセス時)。これは「5ch」掲示板の山川賢一スレや、明月堂書店の仲正昌樹氏による山川批判の連載記事群より上位である。なぜこんな事になっているのか筆者も不思議であるが、世の中捨てたものではないと感じる。人工知能が支配する世界も悪くないのかもしれない。

 

 さてそもそも筆者が山川に批判的になった理由は、次のウォーフに関するツイートを読んだ事がきっかけだった。ちょっと長いがお読み頂きたい。

 

 

 

 

 

 以上のツイートの何がおかしいのか。何度読んでも、筆者には上記山川のツイートが「論証的な文章」だとか、「論理的な文章」とは思えないのである。おかしい点を四つ指摘したい。

 

(1)山川は「ポストモダン派の成立にはサピア=ウォーフ仮説の影響がある」というが、その根拠として山川が挙げたものは、山川がそう思う両者の「類似性」だけである。これに対して「疑似相関」という指摘は陳腐であるが、実際そうなので仕方がない。例えばウォーフと「ポストモダン派」の両者に影響を与えた、共通の要因がある可能性が排除できない。それは、「両者に影響を与えた人物や学派などが存在する」のかもしれないし、単に「人類はその身体や生活の類似性から、似たようなことをしばしば思いつく」程度のことなのかもしれない。

 

(2)山川の引用するウォーフの主張から、いわゆる「構築主義」っぽさはなんとなく漂っている。しかしこうした考え方は、必ずしも「ポモ」にのみみられる主張ではない。

 

(3)そもそも「ポモ」が誰なのか明示も定義もされていない。

 

(4)山川によると「言語が認識に影響する場合もあることが実験的に確認されてい」る、そうだが、上記ウォーフの主張から読み取れるのは、「言語による自然の分類は規約、取り決め的なものだ」といったものに過ぎず、どうして「実験」でそれが確認されたりされなかったりするのか、意味が分からない。規約で自然を分類する方法を決める話と、山川が言う「言語(の規約)が認識に影響する場合もある」という話は別の論点である。

 

端的に言うと、筋が通っていないのである。筆者はこの時点でウォーフの『言語・思考・現実』を読んでいない。<読んでないけど、言ってることおかしくないですか?>という旨の批判を連呼していても聞き入れられず、「読まないとおれ[山川]とあすかい、どっちが正しいかわからないよ」という旨のツイートを返されたので読んだ。そしたら山川がおかしいと分かった、という顛末である。

  上記山川のツイートは、筆者には論証ではなく(特定の人に気持ちのいいだけの)「物語」に見えるのである。<言語学の世界で評価が低い(らしい)ウォーフから影響を受けたことを、ポストモダン派は隠していた。それをぼくが暴露した。ウォーフとポモは理論的に本質を共有しており、ポモのほうが主張は大胆だ。しかしウォーフの主張は実験で少ししか認められなかった。よってポモは死んだ>といった流れの「お話」である。

 もちろんツイートに学術論文のような手続きや正確さを求めるのは酷だ。山川はいずれ本なりなんなりにきちんとした「論証」を書く予定で、今はネタを小出しにせざるを得なかった、という可能性は、可能性の話としてはありうる。しかし全体から漂う「雰囲気」というものはあって、その検証をこのブログで記事にしてきたのでお読み頂きたい。また「お話」であっても、陳腐なものとよくできたものの区別くらいはできるだろう。 

 最後に、山川がウォーフを引用した箇所にある「(中略)」部分について論じる。この点こそが冒頭で述べた、山川が「真面目に読んでいれば目に入ったはずなのに、なぜかその箇所を全く無視している」という論点の、三度目の指摘である。

 

 以下では、山川賢一がウォーフの『言語・思考・現実』から引用した箇所を赤色で、それ以外の箇所を青色で示す。

 

個々の言語の背景的な言語体系(つまり、その文法)は、単に考えを表明するためだけの再生の手段ではなくて、それ自身、考えを形成するものであり、個人の知的活動、すなわち、自分の得た印象を分析したり、自分の蓄えた知識を総合したりするための指針であり、手引きであるということがわかったのである。考えをまとめるということは、古い意味での厳密に理性的な独立の過程ではなく、個々の言語の文法の一部であって、文法が違えば多かれ少なかれ異なってくるものなのである。われわれは、生まれつき身につけた言語の規定する線にそって自然を分割する。われわれが現象世界から分離してくる範疇とか型が見つかるのは、それらが、観察者にすぐ面して存在しているからというのではない。そうでなくて、この世界というものは、さまざまな印象の変転きわまりない流れとして提示されており、それをわれわれの心――つまり、われわれの心の中にある言語体系というのと大体同じもの――が体系づけなくてはならないということなのである。われわれは自然を分割し、概念の形にまとめ上げ、現に見られるような意味を与えていくそういうことができるのは、それをかくかくの仕方で体系化しようという合意にわれわれも関与しているからというのが主な理由であり、その合意はわれわれの言語社会全体で行なわれ、われわれの言語のパターンとしてコード化されているのである。

(B.L.ウォーフ[著], 池上嘉彦[訳],『言語・思考・現実』, 講談社学術文庫, pp.152-153)

 

どうだろうか。筆者には、オリジナルのウォーフの考えは、ある面で哲学者カントに似たものに見える。つまり、現象世界に「範疇」や「型」が見つかるのは、心の中にある言語体系と大体同じものが「範疇」や「型」を与えられた「印象」に押し付け、分類と体系化をするからである、といった主張だ。ややこしいのは、ウォーフは範疇や型が純粋に主観的なものだとは考えていなくて、「実在」を正確に捉える認識と、そうではない認識の区別がある、と考えているところだ。しかしこの点は今の論点ではない。

 重要なのは、赤字でマークした山川の引用のやり方が恣意的で、ウォーフの立場を伝えるには全く不十分だということだ。オリジナルのウォーフによると、言語は印象の「分析」や「概念化」や「体系化」に強く関わる。しかし山川の引用では、言語社会的な取り決めによって、我々の「自然」認識はいかようにも改変できる、という風に読めないだろうか。実際、それが山川が読んでほしい方向性であることは、彼がウォーフの引用部と「認識相対主義」を関連させている事から読み取れるし、このブログの他の記事ではこの点がもっと明確にされている。

 つまりオリジナルのカント的ウォーフを、山川は恣意的な引用によって、(彼が思い描く)ポストモダン・ウォーフに書き換えてしまったのだ。

 

 実はこの悪いやり方は、山川のオリジナルではない可能性が大きい。スティーブン・ピンカーの『思考する言語(上)』(邦訳はNHKブックス, 2009年)に、全く同じ『言語・思考・現実』からの恣意的な引用が見られるのである。その箇所を引用してみよう。ピンカーはウォーフを極端な言語決定論者であると言うが、その際「わら人形論法ではないか?」という反論をまず想定し、いや違う、実際にウォーフはこんなことを言っているんだから、と『言語・思考・現実』から引用してみせる。次のように。

 

したがってこの時点で、わら人形論法でないか厳重な注意が必要だ。もっとも、言語決定論は反論をはね返す筋金入りのスポークスマン(つまり“トランポリン”)を必要としていない。ウォーフ自身、次のように言っていることは有名だからだ。

 

私たちは自然を母語によって規定された線に従って切り取る……私たちが自然を切り分け、それを概念の形にまとめ、意味づけを行う際にある一定のパターンに従うのは、私たちがある合意に関与しているからだ……その合意とは私たちの言語集団全体を通して成立しており、私たちの言語のパターンにコード化されている。この合意はいうまでもなく暗黙のうちになされ、明文化もされていないが、その条項には絶対に従わなければならないのだ。

スティーブン・ピンカー[著], 幾島幸子・桜内篤子[訳], 『思考する言語(上)』, NHKブックス, p.264)

 

青色と太字で強調した「……」の箇所が、ピンカーが「中略」した部分である。次にもう一度、山川が『言語・思考・現実』から引用した箇所を以下で赤字で示す。

 

 われわれは、生まれつき身につけた言語の規定する線にそって自然を分割する。われわれが現象世界から分離してくる範疇とか型が見つかるのは、それらが、観察者にすぐ面して存在しているからというのではない。そうでなくて、この世界というものは、さまざまな印象の変転きわまりない流れとして提示されており、それをわれわれの心――つまり、われわれの心の中にある言語体系というのと大体同じもの――が体系づけなくてはならないということなのである。われわれは自然を分割し、概念の形にまとめ上げ、現に見られるような意味を与えていくそういうことができるのは、それをかくかくの仕方で体系化しようという合意にわれわれも関与しているからというのが主な理由であり、その合意はわれわれの言語社会全体で行なわれ、われわれの言語のパターンとしてコード化されているのである。

 

このように、ピンカーの最初の「……」という中略部分は、山川が中略した部分と完全に一致している。山川はピンカーをお手本にしたのではないだろうか。そしてピンカーの引用作法であるが、国内外の色んな人から批判されている事を以前記事にした。

 

 

さて山川はかつてカール・ポパー反証主義に心酔しているポーズを取っていた。しかし、この記事の事例のように、論敵を恣意的に、極端に、弱いものとして提示して叩くのは、ただのできの悪い「お話」に過ぎない。振り返ると反証主義からあまりに遠く離れたところに来てしまったものである。