山川賢一検証blog

批評家・山川賢一(@shinkai35)の言動を検証するblogです。誤りのご指摘・ご意見はyamakawakenshoあっとgmail.comまで。

最近の上野千鶴子VS柴田英里のフェミニズム論争から理解する山川賢一のウォーフ解釈

 

1 記事の目的

 山川賢一のウォーフ批判と「上野千鶴子VS柴田英里フェミニズム論争」は非常によく似ている。この構図から見れば山川が今置かれている状況がクリアになるので、記事を書くことにした。こうした時事ネタを定期的にぶっこんでブログを盛り上げていきたいものだ。

 

2 山川とウォーフに大きな対立点はあるか?

 10月28日のツイートで、山川はウォーフが「諸言語による思考は絶対的に異質なので人間は普遍的認識をもてない」という主張をしていたと述べている。

 

twitter.com

 

しかし12月3日のツイートで山川は、「ウォーフ説では思考を拘束するのは言語だけなので、母語と異質な言語を学べば異なる世界観を知ることができる」と述べている。

 

twitter.com

 記録1 記録2

 

 山川が認めるように、「母語と異質な言語」を「学ぶ」ことができるならば、外国語を学び、異なる世界観を知ることができる。ウォーフだってそう。前回の記事で指摘したが、ウォーフは上記山川と同じく、異なる言語話者から外国語と知識を<学ぶこと>を容認している。それも科学に関して次のように明言している。

 

現代の中国やトルコの科学者が西欧の科学者と同じように世界を記述するということは、彼らが西欧的な合理的思考の体系をそっくりそのまま取り入れたからであり、決して彼らが自分たちの本来の観察の立場からそのような体系を論証したわけではないのはもちろんである。

  ウォーフ(原論文は1940)「科学と言語学」,『言語・思考・現実』,講談社学術文庫,1993年, p.156. 

 

このようにして、人間どうしの兄弟関係という偉大な事実――すなわち、人間はその点においてすべて同様であるということ――が明らかになって来る。言語の体系性ということから考えると、パプア族で首狩りに従事する者の高度の精神、あるいは「無意識」はアインシュタイン(Einstein)の場合とまったく変わらないくらいの数学的な処理をすることができるのである

 ウォーフ(原論文は1941)「言語と精神と現実」, 前掲書, p.210.

 

いくら粗野な野蛮人であっても、言語体系を苦もなく無意識のうちに操作することができるものである。
 ウォーフ(原論文は1941)「言語と精神と現実」, 前掲書, p.224.

 

 上記引用箇所を踏まえて、山川がウォーフを批判した理由は何だったか思い出そう。以下である。

 

twitter.com

 記録1 記録2

 

 山川によると、ウォーフの問題は「科学的真理の翻訳不可能性」や「伝達不可能性」を主張したり、「人間が普遍的認識をもてない」と主張したことだった。これらは山川がポストモダニストの先駆者であるとウォーフを批判する大きな根拠だ。でも上記の通り、ウォーフはトルコ人や中国人が西欧科学を学び取るという当たり前の事実を認めている。

  またウォーフはパプア族で首狩りに従事する者に関して、アインシュタインと同じくらい数学的処理をする精神を持っていると述べている。

 「身振り手振りで科学的真理を伝えるのですか?」と山川は言うが、自分で認める通り、どの部族の人でも「母語と異質な言語を学んだ」後で、あるいは学びつつ、科学の勉強をすればよいだけです。そもそも母語に翻訳された科学書を学んでもいいし。

 確かに一般に言われるウォーフの「言語決定論者」のイメージと突き合わせると、腑に落ちない点は残る。この問題を山川が深く考えてるようには見えない。筆者はレイコフのウォーフ解釈を読むことで謎が解けたが、これは別の記事で書く予定だ。

 

3 対立点なき論争?

 さて山川とウォーフ、大きな対立点は存在するだろうか。

 見てきたように、大きな対立点は残っていない。山川が言う「科学的真理」がなんであれ、そして翻訳可能性の議論がどうであれ、ウォーフはそれが「そっくりそのまま」諸外国へ伝達されるという、当たり前の事実を認めている。

 またフランス文学修士の山川と、マサチューセッツ工科大学で化学の学位を取ったウォーフ。どちらが「本当に」科学的思考に通じているのかの問題は置くとして、どちらも科学を擁護する側に立っているかのように見える。

 ウォーフは西欧中心主義が強い当時の時代背景に不満を持っていて、むしろ非西欧的な部族の人々にも、西欧人と同等に言語・数学使用の下地が備わっていると上記引用で示唆している。1941年当時の日本人に関してすら、これの言語の精密さを持ち上げる記述がある。

 

適当な形で発展させることさえ可能ならば、このパターンを論理的に用いることを通じて日本語にはさまざまな概念を用いて簡潔な科学的操作をするのに大きな力が与えられることとなろう。

ウォーフ(原論文は1941)「言語と精神と現実」, 前掲書, p.226

 

 繰り返すが、何が対立しているのだろうか。「科学的真理の伝達(翻訳ではなく)可能性」や「普遍的認識」という論点に関して、山川とウォーフに大きな対立点はない。山川がウォーフを誤読しているから、大きな対立点があるかのように見えるというわけなんです

 ここから得られる教訓。ある人物が別の誰かを激しく批判しているからと言って、両者に大きな対立点があると思うのは早計のようだ。

 

 これではまるで、上野千鶴子氏と柴田英里氏のフェミニズム論争じゃないか。

 

logl.net

 

 さて山川は上野千鶴子と柴田英里、どちらに近いだろう。