山川賢一検証blog

批評家・山川賢一(@shinkai35)の言動を検証するblogです。誤りのご指摘・ご意見はyamakawakenshoあっとgmail.comまで。

ウォーフにおける「翻訳不可能性」

1 記事の背景

 山川によると、ウォーフは「科学的真理の翻訳不可能性を主張していることが問題」なのだそうなので、これを検証する。(詳細な背景を説明する事にけっこう飽きてきている)

 

1.1 山川の主張:ウォーフと翻訳不可能性

 山川によると、ウォーフは「科学的真理の翻訳不可能性を主張していることが問題」なのだそうだ。山川によるとヤコブソンがそう述べている。

 

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  なるほど確かに、科学的真理が「翻訳不可能」ならば、日本人には日本人の科学的真理、何々族には何々族の科学的真理が存在し、科学的真理の「普遍的認識」は不可能だという立場に、ウォーフは立っているのかもしれない。詳しく検討する必要がある。

 ところで「shinkai35 翻訳」で検索しても、12月以降のツイートしか出てこない。「翻訳不可能性」は山川がけっこう最近提起しはじめた論点に見えるが、単に検索で引っかからないだけだろうか。

 

2 検討

2.1「近似」

 まず注目したいのは、翻訳不可能性に関して、山川が「ウォーフはホピ族の世界観はホピ語以外では近似的にしか表現できない(翻訳不可能である)と主張している」と述べている事である。山川は以下のツイートで、「近似的にしか表現できない」を丸括弧して「(翻訳不可能である)」と補足している。

 

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 山川はウォーフの論文「アメリカ・インディアンの宇宙像」からこの箇所を以下の様に引用している。

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 確かにウォーフは「アメリカ・インディアンの宇宙像」において、以下の事を述べている。 

 こういうわけで、ホーピ語とホーピ族の文化には一つの形而上学が秘められているわけであり、この点空間と時間についてのわれわれのいわゆる素朴な見方とか、相対性理論の場合も同様である。ただしかし、ホーピ族のものは後者のいずれとも異なっている。ホーピ族の見方で宇宙の構造を記述しようとすれば、この形而上学を――できうる限り――明確にするよう努めなければならない。ただし、この形而上学はホーピ語によってのみ正当に記述できるようなものであり、われわれ自身の言語で表すとすれば近似的なやり方で――もちろん、多少は不十分なものにならざるをえないが――ホーピ族の宇宙観の根底にある体系と比較的うまくかみ合うような形にわれわれが作り上げた概念を利用してやってみる他はない。

 このホーピ族の見方では、時間の概念が消失し、空間も変貌し、その結果、われわれのいわゆる直観、ないしは古典的なニュートン力学に基づいた均質的で同時的な、無時間的空間というようなものではもはやなくなるのである。その半面では、新しい概念や抽象が登場し、われわれのような時間や空間の概念に頼ることなしに宇宙を記述するという仕事にとりかかるのである。それはわれわれの言語では十分表現できないような抽象概念なのである。このような抽象概念を使ってわれわれはわれわれに納得行くような形でホーピ族の形而上学近似的に再建しようと試みるわけであるが、われわれにはそれらの抽象概念は心理的、あるいは神秘的な性格のものとすら思えることは間違いない。

ウォーフ(原論文は1936)「アメリカ・インディアンの宇宙像」, 『言語・思考・現実』,講談社学術文庫, pp.14-15.

 

  しかし上記個所を読むと、ウォーフは「多少は不十分」でも、「ホーピ族の宇宙観の根底にある体系」を英語に翻訳できる、とポジティブに言っている。他方「それはわれわれの言語では十分表現できない」とネガティブにも述べており、不明瞭な箇所ではある。

 ところで「近似」ってなんだろう。

  

近似(きんじ、: approximation)とは、数学物理学において、複雑な対象の解析を容易にするため、細部を無視して、対象を単純化する行為、またはその方法。近似された対象のより単純な像は、近似モデルと呼ばれる。

近似 - Wikipedia

 

[名](スル)
非常に似通っていること。「近似した図柄」

ある数値に非常に近いこと。また、そのような値で表すこと。「近似計算」

goo辞書

 

 上記記述からすれば「近似」という言葉は、ある表現によって複雑な対象をより「単純な像」として表現する場合。ある図柄がもとの対象に「非常に似通っている」場合。またはある数値が「ある数値に非常に近い」場合において使用されるようだ。

 この記事で「翻訳不可能性」について突っ込んだ話はしない。稿を改める。

 次の章では、ウォーフの記述に従って、山川の主張の問題点を指摘する。

 

2.2 「近似」は「科学的真理の翻訳不可能性」をいみするか?

 ウォーフの「近似的…」という主張から、山川が「科学的真理の翻訳不可能性」を導き出す理路は不明瞭だ。例えばウォーフ自身は別の論文で以下のように述べ、「西欧の科学的思考」の中国語やトルコ語話者による<学習>あるいは<模倣>を、全く容認している。

 

現代の中国やトルコの科学者が西欧の科学者と同じように世界を記述するということは、彼らが西欧的な合理的思考の体系をそっくりそのまま取り入れたからであり、決して彼らが自分たちの本来の観察の立場からそのような体系を論証したわけではないのはもちろんである。

ウォーフ(原論文は1940)「科学と言語学」,『言語・思考・現実』,講談社学術文庫,1993年, p.156.

 

 山川が言う「科学的真理」とはなんぞいという事は脇に置くとして、ウォーフは「科学的真理の翻訳不可能性」を主張しているのだろうか。ウォーフは、中国人やトルコ人が西欧の科学を「そっくりそのまま取り入れる」事が可能だと述べている。<学習>を介して、「そっくりそのまま」の理解が成立すると示唆しているように読める。これはある意味では完全な「翻訳」の成功ではないだろうか。

 上記の通り、必ずしも山川の「翻訳不可能性」の話は的外れではない。ウォーフの記述を部分的に理解すれば、そういう話にもなりうる。しかしウォーフに対して「普遍的認識」を否定する「ポストモダ二スト」の仲間であるとレッテルを貼ることは難しい。ウォーフがポストモダニストの先祖だとすると今一つパンチに欠ける。ウォーフによれば、西欧的な合理的思考の体系を外国人が「そっくりそのまま取り入れ」る事が可能だ。現実にそうなっているし、何も問題はない。よって「普遍的認識」は、ウォーフの記述において輸出入自由であるかのように見える。これに対して↓山川のウォーフ解釈は以下。

 

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2.3 レイコフのウォーフ解釈

 それともウォーフは、「真理」は客観的なものではなく、人と人のあいだで言語的に「構築」される幻像に過ぎないとでも考えていたのだろうか。それならば、ウォーフの上記記述に従って仮に「科学的真理と思われているもの」が外国語話者によって学習・輸出入可能であっても、「科学的真理」そのものには手が届かないのかもしれない(「科学的真理」とは何なのか、は考えないとして)。そういう立場をとる科学者もいそうなものだけど。ところがこの見解をウォーフに帰すことはできない。

 ジョージ・レイコフが力の入ったウォーフ解釈で強調しているが、ウォーフは「客観主義的現実」が実在し、それを認識することが可能だと「信じて」いた。下記記事参照。

レイコフvs山川賢一:ウォーフにおける「普遍的認識」 - 山川賢一検証blog

 

レイコフは、『認知意味論』第18章、「ウォーフと相対主義」の章において、以下の通りウォーフ思想を解釈する。

ウォーフは事実に関しては確かに相対主義者であった。彼は,諸言語は,実際に,さまざまに異なる通約不可能な概念体系を持っていると信じていた。しかし価値に関しては,彼は客観主義者であった。彼は客観主義的現実が存在するということを信じていた。そして彼は,言語に組み込まれた概念体系のうちのあるものだけがかなり正確にその現実に適合し得ると信じていた。彼は,諸言語はその概念体系においてそれぞれ異なっていると信じていたが,諸言語のうちのあるものは他のものよりも正確で,従って科学の研究により適していると信じていた。ウォーフを特殊な人物たらしめた原因の一つは,彼が英語至上主義者ではなかったということであった。彼はホピ語の方が英語よりも外界の現実,つまり物理的現実に適合する力が備わっていると考えていた。

 

レイコフ 『認知意味論』, p.396.下記書籍より。

池上嘉彦・河上誓作ほか訳『認知意味論――言語から見た人間の心』, 紀伊國屋書店, 1993年, pp.370-413.

 

 上記でレイコフが「客観主義的現実」と述べるのは、以下の「客観主義の哲学」が想定する「現実」像である。

 …この見解は客観主義の哲学から生じる。すなわち、概念が行うべき仕事は客観的な物理的真理に適合することであってそれ以上のことではないと仮定する哲学である。この見解に基づけば,概念体系はうまく適合する,すなわち「自然をその節目のところで分割する」ということに成功するか失敗するかのどちらかである。概念体系は分割箇所として異なる節目を選ぶ可能性がある。すなわち,現実の異なる側面を概念化する可能性がある。その上,概念体系はそれぞれその「きめの細かさ」が異なることがある。すなわち,概念体系は,ウォーフが述べているように,「切れ味の鈍い刃物」や,あるいは「細身の小剣」を用いることによって,自然を大きな固まりに分割することもあれば,小さく器用に薄切りに刻むこともある。しかし概念体系は新しい節目を創造することはできない。なぜなら,客観主義は,すべての節目は前もって客観的に一度限り与えられていると仮定するからである。概念体系は自然の中に常に節目を見つける場合は正確であり(ただし確かに概念体系は全ての節目を見つけることはないであろうが),そして,節目を見逃して骨に当たったりあるいは何にも当たらなかったりする場合は不正確である。

(『認知意味論』, p.376、太字と色は筆者による)

 

 つまりレイコフは、ウォーフのことを「客観主義の哲学」的な「現実」の存在を「信じ」た人物だと主張している。「自然を…分割」という表現で、レイコフが念頭に置くのはウォーフの以下の記述だろう。

 

われわれは、生まれつき身につけた言語の規定する線にそって自然を分割する。われわれが現象世界から分離してくる範疇とか型が見つかるのは、それらが、観察者にすぐ面して存在しているからというのではない。そうではなくて、この世界というものは、さまざまな印象の変転きわまりない流れとして提示されており、それをわれわれの心――つまり、われわれの心の中にある言語体系というのと大体同じもの――が体系づけなくてはならないということなのである。

ウォーフ「科学と言語学」, 前掲書 , p.153.

 

レイコフは、客観主義の哲学における「概念体系」及び「現実」の役割を「すなわち概念体系は肉屋であり,現実は屠殺場の屍であり,文化が異なるのはその肉の刻まれ方においてのみである」と比喩的に要約し、以下のように評する。「このような見解に基づくと,相対主義は現実的かもしれないがそれ程たいした問題でもないということになる」(前掲書, p.376)。

 確かにウォーフがこの意味での「相対主義者」だったとしても、パンチ力は弱い。なぜなら異なる言語話者同士で「概念体系」が違っても、ウォーフは新しい概念を「そっくりそのまま取り入れる」つまり、<学習>できることを暗示している。またウォーフが信じる「現実」も、客観主義的なそれなのだから。

 

3 考察

 以上の検討で、山川とレイコフの理解の差異が明らかになった。とはいえウォーフといえば「言語相対論」のイメージが強いわけで、山川が述べている批判が全くまとはずれというわけではない。

 ある言語における概念体系は、別の言語において「近似的」にしか表現できないが、<学習>できるとはどういう事だろうか。筆者も、ウォーフが「翻訳」の問題を特に決定的な関心ごととみなしていないように感じ、よくわからないと感じていた。そもそもウォーフ自身が、ホーピ族の認識と英語話者の「認識」を把握するメタな位置にいるようであるし、またそのメタな事に言及もしている。

 ウォーフと翻訳の問題に関しては、レイコフが非常に説得力のある主張をしている。稿を改めて紹介したい。