山川賢一検証blog

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レイコフvs山川賢一:ウォーフにおける「普遍的認識」

 

1 記事の背景

 ジョージ・P・レイコフは認知科学言語学の世界的権威である。レイコフの『認知意味論』をめくっていたら、ウォーフの思想に関してかなり詳しい分析と論評を行っているのを見つけた。色々と興味深い論点が含まれているが、今回はウォーフが相対主義」と「科学」、「客観的認識」について何を考えていたのか、レイコフの解釈と山川の解釈を比較する。

 比較を行う第一の理由は、山川がウォーフに関して主張した、<<ウォーフは「諸言語による思考は絶対的に異質なので人間は普遍的認識をもてないと考えてる」>>という解釈が誤りである事を示すためだ。

 同様の趣旨の記事を以前執筆した(山川賢一のウォーフ解釈:ウォーフにおける「普遍的認識」)。しかし前回の記事からは、ウォーフが個別言語の相違を超えた「普遍的な思考原理」に関してなにごとかを考えた人であるという事は伝わっても、「科学」や「客観的認識」に関してどう考えていたのか明瞭ではなかった(『言語・思考・現実』を読んでくれればいいんだけど)。レイコフの記述はこのへんの関心を満たしてくれる。

 

2 レイコフのウォーフ解釈

  以下のレイコフによる記述は、池上嘉彦・河上誓作ほか訳『認知意味論――言語から見た人間の心』, 紀伊國屋書店, 1993年, pp.370-413.から引用している。筆者が強調したい箇所は青色かつ太字にしている。

 レイコフは第18章で「ウォーフと相対主義と題して、相対主義とウォーフとの関係を詳しく論じている。レイコフによると、ウォーフは今世紀の最も著名な相対主義者だ。そして相対主義は「責任感のある」学者たちから忌み嫌われている。その理由は、「自分が科学に専念していると考えている人の多くは、科学的思考は客観主義の世界観、すなわち「正しい」概念体系がただ一つだけ存在するという立場を表明することを必要としていると考えている」(p.370)からだ。

 しかしレイコフにいわせると、「科学者になるよう学ぶということは,科学的な概念に対する幾通りかの概念化を学ぶということを必要とする」(p.371)。例えば「ある高度な知識のレベルで電気を理解するには,メタファー,それも複数のメタファーが必要」(p.371)である。こうしてレイコフは、相対主義の問題は簡単ではないことを提示する。そして一言で「相対主義」といっても、その内実は実に多様かつ複雑であるという事を論じていく。 

 この辺は筆者もあんまり理解できていないので飛ばし、ウォーフに直接関連する箇所を以下で引用する。

 

 ウォーフは事実に関しては確かに相対主義者であった。彼は,諸言語は,実際に,さまざまに異なる通約不可能な概念体系を持っていると信じていた。しかし価値に関しては,彼は客観主義者であった。彼は客観主義的現実が存在するということを信じていた。そして彼は,言語に組み込まれた概念体系のうちのあるものだけがかなり正確にその現実に適合し得ると信じていた。彼は,諸言語はその概念体系においてそれぞれ異なっていると信じていたが,諸言語のうちのあるものは他のものよりも正確で,従って科学の研究により適していると信じていた。ウォーフを特殊な人物たらしめた原因の一つは,彼が英語至上主義者ではなかったということであった。彼はホピ語の方が英語よりも外界の現実,つまり物理的現実に適合する力が備わっていると考えていた。
 ウォーフの客観主義は次の二つの源に由来していた。すなわち,根本主義キリスト教徒であったということと,1910年代にマサチューセッツ工科大学で化学工学者としての教育を受けたということである。彼の言語学への関心は,彼の客観的真理の二つの源,すなわち科学と聖書との聞に不一致があるということから生じた。彼は,その不一致は,聖書の原典がインド・ヨーロッバ諸言語に翻訳された結果生じた原典の誤解が原因となっているのだと信じていた。彼は,聖書の意味の新しい理解によってこの不一致が取り除かれるであろうと考えた(Whorf 1956. p. 7)。彼は,英語やその他のインド・ヨーロッパ諸言語が持つ概念体系は客観的世界に十分に適合するものではないために誤解を招く恐れがあると考えるようになった。彼は,英語が豊富なメタファーの体系を持つと述べたという点では正しかった。しかし彼は,そういう体系を持つということは「空の」ガソリンの缶にマッチを一本落とすような誤りを人に犯させる可能性があり,それ故悪いことである,と考えた(Whorf1956. p. 135)。彼がホピ語に惚れ込んだということの一つの現れは,ホピ語では,英語ではできないようなきめ細かい区別,すなわち客観的世界によりうまく適合し得るような区別を行うことができるとみなし,それ故ホピ語の方が優れた言語であると考えたということである。ウォーフにとっては,英語が「切れない刃物」であるのに対してホピ語は「細身の小剣」であった。

 ウォーフはまた,ホピ語にはメタファーがないということも主張した。そして彼はそのこともホピ語の方が優れていることを示すものであると考えた。ウォーフは英語のような言語が豊富なメタファーの体系を持つということは認めていた。しかし彼は,メタファーというものは正しくないものであり,誤解を招く恐れがあり,ある言語がメタファーを持つということは良くないことだと考えた。マロツキ(Malotki)が最近その見事な著作「ホピ語の時間」 (Hopi Time 1983) の中で示したように,ホピ語の多くの側面に関してウォーフは間違っていた。ホピ語は,特にその時制体系において,メタファーで満ち満ちているのである。また,ウォーフはホピ語の時間の概念に関しても間違っていた。彼はホピ語には西洋の時間概念のようなものは全く存在しないと主張してしまった。マロツキが非常に詳しく証拠を挙げて立証しているように,ホピ語には時間の概念が確かに存在し,そして時間に関するメタファーの豊かな体系が存在するのである。
 ウォーフは,メタファーには積極的な価値が全くないとみなしたわけではない。彼はメタファーは共感覚から生じるものとみなした。(確かにある場合においては共感覚から生じるように思われる。)そして彼は共感覚を現実的なものとみなしたので,メタファーは「思考の混乱」であるにもかかわらず,共感覚経験という現実を表現しようとする試みなのだと考えた(Whorf1956. p. 156)。

 ウォーフは分類しにくい人物であった。彼のことを単に相対主義者であると考えてしまうと,あまりに極端に割り切りすぎているということになる。

(『認知意味論』, p.395-397)

 

いかがだろうか。レイコフの論評と対比するため、山川がウォーフに関して述べたツイートを引用しよう。

 

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  山川によると、ウォーフ(や「ポモ」)は「諸言語による思考は絶対的に異質なので人間は普遍的認識をもてないと考えてる」そうだ。対してレイコフは、ウォーフについて「彼は客観主義的現実が存在するということを信じていた。そして彼は,言語に組み込まれた概念体系のうちのあるものだけがかなり正確にその現実に適合し得ると信じていた。」と述べている。また、「彼は,諸言語はその概念体系においてそれぞれ異なっていると信じていたが,諸言語のうちのあるものは他のものよりも正確で,従って科学の研究により適していると信じていた。」とも述べている。英語が「切れない刃物」であるのに対してホピ語は「細身の小剣」というのは、客観主義的現実を切り分ける刃物の精度について述べているわけで、客観主義的現実というものの存在なしでは意味をなさない。

 レイコフと山川の解釈が、両立しないことは明らかだろう。ちなみにウォーフの論文集『言語・思考・現実』(講談社学術文庫)をある程度まじめに通読したならば、「客観主義的現実」や「科学」についてウォーフがレイコフの解釈のような態度を取っている事は、比較的容易に察知できると思う。『言語・思考・現実』(講談社学術文庫)の本文は、文庫本で二百数十ページほど。

 ざっと本全体に目を通すだけでも、レイコフ的な記述を発見できる可能性はかなり高い。ほんとうに「ある程度」くらいでいいのだが…。それができていない山川は…。

 

3 しかし山川には「オカルト」という印象操作と、「完訳版」がある

 最近の山川は、「ウォーフはオカルト!」を連呼している。

 

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 筆者には山川が、印象操作で「普遍的認識」などの話をうやむやにして、逃げているようにしかみえないのだが。ウォーフが「ポストモダン」の先祖だった点を「ポストモダニスト」が隠していると指摘し、心理学実験で倒されたという話をするのが山川の当初のプランだった。

 

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しかしレイコフの解釈をみればわかるように、どうもウォーフは「ポストモダニスト」っぽくない。「ウォーフは分類しにくい人物であった。彼のことを単に相対主義者であると考えてしまうと,あまりに極端に割り切りすぎているということになる。」というレイコフの評価を思い出そう。山川の当初の筋書きはガタガタである。プランが狂いだしたため、山川は「ウォーフの思想はオカルトであり、学問ではない。終わり。」という方向にうやむやにしたいように見える。

 冷静になって考えてみよう。レイコフという世界的学者が、その大著『認知意味論』の中で、膨大なページを割いて、真面目に「ウォーフの言ったこと」を論じているのである。また前回の記事でも、ウォーフ研究者であり、『言語・思考・現実』の翻訳者でもある池上嘉彦の読みと、山川賢一製の「山川ウォーフ」が両立しえないことを示した。

ウォーフは「知覚の相対性」を主張したか?:山川賢一vsウォーフ研究者 - 山川賢一検証blog

 

 その思想を「オカルト」と一蹴することは適切だろうか。そういう読みもあるだろうけど、これまで検証してきたとおり、山川の背後に黒くてドロッとしたものが見えるので、不純な動機から印象操作で逃げているようにしか見えない。

 例えばウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』の後半部で、「神」とか「神秘」、「高次の存在」に言及しているわけだが、だからといって「『論考』はオカルトであり、学問ではない。終わり。」といって片づける人はあまり見かけない。そのような態度を取ると、専門家からは端的に「浅い読みだ」と思われそうだ。ウィトゲンシュタインとウォーフの思想はかなり異質だが、事情は似ていると思う。

 

 山川は今、あるジレンマに陥っている。山川が自らの解釈が正しいと誇示すれば誇示するほど、レイコフや池上嘉彦といった権威ある言語学者が間違っていることになる。もしも山川が正しければ、 どう好意的に見積もってもウォーフに関心を向けて一年足らずの山川賢一が、上記学者を上回る「画期的な解釈」を提示した事になる。まあ山川曰く「完訳版にあたらないと意味がない」そうだから、池上もレイコフもウォーフの論文を山川より多く読んでいないために、解釈を誤ったのでしょう。

 

 とはいえ「権威だから正しい」という考え方もまた一面的であり、おかしな事を言う権威も存在する。ではどう判断すればよいのか。結局読者が自分でウォーフの論文集『言語・思考・現実』を読みつつ、すべての事情を勘案して判断するしかないのではないか。