山川賢一検証blog

批評家・山川賢一(@shinkai35)の言動を検証するblogです。誤りのご指摘・ご意見はyamakawakenshoあっとgmail.comまで。

ウォーフは「知覚の相対性」を主張したか?:山川賢一vsウォーフ研究者

 1 前回までのあらすじ(記事の背景)

 続き物なので、前回のエントリ(山川賢一の「論証のやり方」について )をまずお読み頂きたい。繰り返しになってしまうが、前回の記事から大きな「これまでのあらすじ」を抜粋する。

 

 山川賢一はここ最近言語学者・ベンジャミン・ウォーフへの批判に精を出し、最近はウォーフに関し「こんなどうでもいいオカルト野郎」と罵るなど、精神を加速している。一体どうしてウォーフなのか。その大きな理由は、山川によると「ウォーフの学説はポモ(ポストモダニストそっくり」だからだ。

 

 山川によるとポストモダン側(誰のことか不明だが)は、「言語や文化が知覚に影響する、よって文化圏により現実認識には埋めがたい溝がある、よって科学は信頼できない」という論法を使うらしい。

 そしてポストモダン側もウォーフも「言語が知覚に影響する」と主張している。加えて「諸言語による思考は絶対的に異質なので人間は普遍的認識をもてない」と考えている点が、山川によると共通している。山川が理解する「ウォーフ」の言語相対論によると、身に着けた言語が異なることの影響によって、「普遍的認識」をもてなくなるほど、知覚や思考が強く歪んでしまうのだ。「山川ウォーフ」によれば 知覚は普遍的ではない

 

 上記の「山川ウォーフ」的な「俗流ウォーフ解釈」をする解釈者は存在する。これが問題をややこしくしているのだが、山川が「普遍的認識」を否定する者どもの哲学的立場「認識的相対主義」を定義するため引用した黒木玄氏の記事が、認識的相対主義の典型として「サピア・ウォーフ仮説」を挙げているのは興味深い。

 

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 筆者が見るに、俗流ウォーフ解釈史には大きな問題が潜んでいる。しかしここでは話を山川に限定する。山川からすれば、ウォーフは認識的相対主義者である。また言語的影響による「知覚の歪み」はウォーフが主張するほど大きくはない。このことは心理学実験が示している。したがって、山川によると<<言語的影響によって「普遍的認識」が持てなくなるほど知覚が歪む>>とする立場のウォーフもまた誤っていることになる。 

 「心理学的実験」によりウォーフが論駁されたとしよう。これができるとなにがうれしいかというと、次の事が言える。先述した「ポストモダン側」「ポモ」もまた<<言語的影響によって「普遍的認識」が持てなくなるほど知覚が歪む>>という、「山川ウォーフ」と同じ論法を用いている(らしい)。このため「心理学的実験」でウォーフを「反証」したやりかたでポモを強く殴打する事は有効であり、その根幹にある(と山川が理解する)「認識的相対主義」に一定のダメージを与える事を期待できる。

 こうした事情を面白く語れれば、確かに山川は言論界で出世できるかもしれない。

 

1.2 山川の「論証」のずさんさ

 山川はウォーフの著作を解釈して「山川ウォーフ」を作り上げた。しかしながら前回の記事で説明した通り、山川の解釈は誤っている。また仮に「事実」がどうであるのかをわきに置いたとしても、山川の論証のやり方は倫理を欠いている。(前回の記事:山川賢一の「論証のやり方」について - 山川賢一検証blog )

 筆者がこう批判しても、でも山川さんはめちゃくちゃ頭がいい。なにせ本を何冊も出しているプロの批評家だ。だから、あなたよりウォーフを『読めている』かもしれないじゃないか。山川さんの主張にはきっと深遠な理由があるんだ・・・」と言って、納得しない人がいることだろう。

 確かに山川はプロだ。それなりに認められてもいる。「「フィジカルな宇宙―H・G・ウェルズ」で2009年度(第5回)日本SF評論賞日本SF作家クラブ主催/「S-Fマガジン」後援)最終選考。「H・G・ウェルズダーウィニズム詩学」で2011年度(第54回)群像新人文学賞評論部門最終選考」らしい。山川賢一 - Wikipedia

 こうした事情から、ウォーフ研究で業績を上げているウォーフ研究者の解釈と、山川の解釈を対比する必要が生じてくる。

 

1.3 目的と論証方法

 この記事は、ウォーフの論文「習慣的な思考および行動と言語との関係」(原題:The Relation of Habitual Thought and Behavior to Language)に対して山川賢一が提示したウォーフ解釈が誤りであることを示す。

 論証方法は次の通りだ。山川賢一自身が引用し依拠したウォーフの論文「習慣的な思考および行動と言語との関係」を取り上げる。山川が引用したのは講談社学術文庫版」、池上嘉彦[訳]『言語・思考・現実』に収録された同論文であるが、実は、別の文献において、「訳者」の池上嘉彦氏はこの論文内容を要約し、解説している。ウォーフ解釈の「権威」である池上嘉彦氏は、問題の個所をどう解釈しているのか。結論から言うと、山川が提示したウォーフ像である「山川ウォーフ」とは両立しない。

 我々が住むこの世界が「認識的相対主義」的世界でないのならば、事実は認識できる。あるいは少なくとも、明らかに事実ではない解釈は否定できる。従って認識的相対主義を批判する山川の立場に立てば、山川と池上氏、どちらかが間違いである。

 

2 山川の解釈と池上嘉彦氏の解釈

2.1 「ぼくがラッコを論破したので見てください」

  まずは山川の議論を確認する。山川はツイッターでラッコ=筆者の解釈を以下のように批判している。

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 筆者(ラッコ)の反論は前回の記事で行ったからそこは繰り返さない。

 なお、どうでもいい話ではあるが、後述するツイートと合わせて山川は「ぼくがラッコを論破したので見てください」という名言を残している。

 

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 なお、本人は現在ツイートを消している。

 

2.2 山川の主張

 さて、大きな話に戻ると、論点はウォーフが「知覚」が「概念」によって「捻じ曲げ」られると主張しているのか否かだ。

 

 山川は「ラッコ」の解釈が誤りだとする論拠として、ウォーフの論文「習慣的な思考および行動と言語との関係」(原題:The Relation of Habitual Thought and Behavior to Language)から引用している。

 以下の通りである。

 

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「ラッコを論破」できてよかったね。。。

と言いたいところだが、「山川ウォーフ」はいくらなんでもひどい。

 ここでの山川の直接的主張は、「ウォーフは言語が知覚を変化させると言っている」「ウォーフは知覚が概念と混じると言っている」。であるが、正確に言うと、山川の主張はもっと強い。山川の主張は「ウォーフは知覚の普遍性を否定している」、「ウォーフによると普遍的認識が成り立たないほど知覚の歪曲は大きい」というレベルで「言語が知覚を変化させる」「知覚が概念と混じる」ことのはずである。

 とはいえ、山川の引用した論文に関して「言語が知覚を変化させる」「知覚が概念と混じる」ことですら、端的に否定する解釈が存在する。それは、池上嘉彦(1970)の記述だ。

 

2.3 池上嘉彦(1970)のウォーフ解釈

  池上嘉彦氏は当記事2.2で山川が引用したウォーフの『言語・思考・現実』(講談社学術文庫)の訳者である。そして山川が引用したページは「p.138-139」である。この箇所は、ウォーフの論文「習慣的な思考および行動と言語との関係」(原題:The Relation of Habitual Thought and Behavior to Language)に属する。

 池上嘉彦は、サピアとウォーフの論文集『文化人類学言語学』(1970, 弘文堂)の解説において上記論文を要約する形で、ウォーフの師サピアとウォーフの主張を比較している。筆者にとって都合がいいことに、池上(1970, pp.250-251)は「習慣的な思考および行動と言語との関係」(原題:The Relation of Habitual Thought and Behavior to Language)における知覚・言語・思考・概念および「言語相対性原理」の関係について、ウォーフから引用しつつ解釈を述べている。少し長いが池上(1970, pp.250-251)から引用する。

 

 サピアの主張した点の多くは、ウォーフによっても支持され、敷衍されている。「習慣的な思考および行動と言語との関係」の中で、ウォーフは、(1)言語と思考の関係、(2)言語と文化の関係、というように問題を2つに分けて考えている。この際の言語とは、「特定の言語の構造」(Whorf 1941a; 本書, p.15)のことであり、「言語一般」というようなものではない(Whorf 1941a; 本書, p.74)。ただし問題になるのは、「時制」とか「名詞」といった特定の1つの下位体系ではなく、こういったものが統合されて生じる「表現の仕方」とも言うべきものである(Whorf 1941a; 本書, p.41-42)。われわれの知覚というものは、言語に関係なく「同じ形」で人間に与えられる。しかし、経験が言語としてまとめられる際には、言語というものに「よって決まる」(同; 本書, p.41)。それ故、言語とはわれわれの「概念を形成するもの」であり、「知的活動の指針」である(Whorf 1940b; 本書, p.54)。この過程はわれわれの意識の「背後」(Whorf 1940a; 本書, p.50ほか)において行われるものであるが、「絶対服従を要求する」(同 ; 本書, p.55-56)ものである。ここから、言語的背景が違えば事実の認識の仕方も違ってくるという言語的な「相対性原理」が出てくる(同; 本書, p.56; Whorf 1940b; 本書, p.67)。

 

上記の通り、 「われわれの知覚というものは、言語に関係なく「同じ形」で人間に与えられる」また、「言語とはわれわれの「概念を形成するもの」であり、「知的活動の指針」」と池上(1970)は同論文を要約している。言語により知覚が歪むという話はしていない。

 池上(1970)は、言語は「概念を形成する」「知的活動の指針」であるが、「言語に関係なく」知覚は「同じ形で」「与えられる」とも述べる。つまり「知覚」/「概念・知的活動」は、言語との関係において対比的に配置され、語られている。

 このように池上(1970)の解釈は、先述した山川の解釈と隔たりが大きい。

 

3 考察

 まったく同じウォーフの論文・翻訳の「習慣的な思考および言語との関係」を解釈して、ウォーフ研究者と山川賢一。どうしてこうも正反対の解釈が出てくるのか。「あいまいな議論」*1をウォーフがしており、ラッコ=筆者がそこに「ふりまわされている」ことに、山川は理由を求めている。*2

 筆者のウォーフ知覚論における立場は、池上嘉彦(1970)を否定しない。池上(1970)もウォーフに振り回されているとでもいうのだろうか。自分の詭弁を通すために、「曖昧」だと作者に責任をなすりつける行いは、いい加減やめてほしいものだ。

 

 山川はなぜ自らの「ウォーフは知覚の言語相対性を(それも強く)主張した」という解釈に固執するのか。根本的元凶。自分の批判したい「ポストモダンの歴史」というストーリーに沿って、ウォーフを便利な「コマ・役者」として配置したい思惑が透けて見える。便利なコマが失われると困る。それは理解できる。果たしてこれは「バイアス」という素直なものだろうか。

 山川はSF界隈出身という背景、進化論ネタ、ポストモダン批判によって、合理的で啓蒙的な立場だとみられがちだ。しかし本質的には、物語を語りたい人なのではないかと思う。彼の論述は、論証というより「物語り」に見えることが多い。事実を明らかにするために論証や議論をしていると思って異論を述べると、山川が高圧的態度で反論してくるのが不思議だった。しかし自分が作った小説を気持ちよく朗読している人物に、通りすがりの人が「ここの事実描写っておかしいんじゃない?」と疑問を呈すれば、不機嫌になるのは理解できる。

 山川がリスペクトを惜しまないカール・ポパーだが、山川の読解はポパーを裏切り、「異様」なまでに反証を無視する。このことは前回指摘した。山川賢一の「論証のやり方」について - 山川賢一検証blog

 こうした山川の読解姿勢を、単に「思い込みが激しい」ことからくる無自覚的なものだと、中立的に眺める人もいる。果たしてそうした素直なものからくる「偏り」だろうか。仮に無意識的にこうした偏った読解をし、論争をする人物だとしよう。そんな人物が「愚か」だとみなされている様子はあまりない。反対に何冊も本を出し、ツイッターでフォロワー数が5000近く、研究者や作家などの「知識人」と交流がある。不思議なことだと思う。少なくとも、ある種の口達者ではあるのだろう。

 上記箇所の解釈について、筆者が引用したいウォーフ研究者は池上嘉彦氏のみではない。掘り下げた記事を書く予定である。