山川賢一検証blog

批評家・山川賢一(@shinkai35)の言動を検証するblogです。誤りのご指摘・ご意見はyamakawakenshoあっとgmail.comまで。

山川賢一のウォーフ解釈:ウォーフにおける「普遍的認識」

1 はじめに

1.1 記事の目的とモチベーション

 この記事の目的は、山川賢一のウォーフ解釈において、山川がウォーフの主張であるとした、「諸言語による思考は絶対的に異質なので人間は普遍的認識をもてない」という主張が誤りである事を示すことだ。 

  山川を批判するには、多少退屈であってもテーマを小さく、細かく区切って、彼の誤りを事実に照らして指摘していく事が有効である。言い逃れさせないためだ。今回はウォーフが「普遍的認識」を、ほんとうに否定していたのか?を取り上げる。

 

1.2 記事の構成

1 はじめに

2 論証

3 考察

 

1.2.1 論証方法

 今回はウォーフ解釈において、二人の日本人言語学研究者を引用し、「権威」の解釈が、山川のそれとはかけ離れていることを示す。本当はウォーフの論文集からの原文引用でさらに補強するつもりだったが、記事が長くなりすぎるため今回は断念した。

 

1.3 そもそもウォーフって誰?

 20世紀前半に活躍したアメリカの言語学者で、「言語相対論」とか「サピア=ウォーフの仮説」と呼ばれる理論を提唱したとされている…。どんなものかというと、

 ざっくり言うと、言語相対論の中には「強い仮説」と「弱い仮説」とあるのですが、前者の「強い仮説」を言語決定論ということが多いです。

「強い仮説」では「言語によって思考は決まってしまう」というやや極端な立場を取ります。

一方、「弱い仮説」では「決定はしないが、言語が異なれば思考に影響を与える」という立場です。

 

言語によって思考が決まる?言語相対論/言語相対論/サピア・ウォーフ仮説における意味の違い、背景、批判、経緯 | Share Study

 

   問題なのは「強い仮説」(解釈)である。例えばホニャララ族のホニャララ語には、日本語の「甘い」や「悲しい」に相当する言葉がないと仮定する。するとホニャララ族の人々は「甘い」や「悲しい」という思考をすることがない、あるいは思考できないことになる。加えてホニャララ族は、そうした思考を欠いているわけだから日本人ともうまくコミュニケーションが取れそうにない。

 上記解釈において、言語が決定するのは「思考」だけである。だがもっと極端な思想を、「ウォーフがこんな事言ってた」とウォーフに擦り付ける解釈者もいる。例えば心理学者のスティーブン・ピンカーや、言語学者ガイ・ドイッチャーだ。どちらも山川がお気に入りとするウォーフ解釈者である。

 例えばピンカーの解釈は、言語が「網膜にまで手を伸ばして、神経節細胞をつなぎなおす」という「ものすごく強い仮説」を、ウォーフに擦り付けている*1

  ドイッチャーの解釈はもっと大胆で、「ウォーフは前人未到の領域に踏みこみ、主張の大胆さを増しながら、母語は話し手の知覚と思考のみならず宇宙の物理的特性にまで影響する力を持つ、と説きつづけた」*2そうである。

 ピンカーもドイッチャーも、身に着けた言語がある人の思考のみならず、「知覚」をも支配するとウォーフが言ったと述べている。それどころか「神経節細胞をつなぎなおす」「宇宙の物理的特性にまで影響する」というのだから、言語習得は「現実」の細胞や物理法則すら変化させてしまうようだ。

 

1.4 山川はドイッチャーから影響を受けた

 ドイッチャーの著作からもろに影響を受けてしまったのが、このブログの主人公である山川賢一だ。検索すると、どうも2017年6月ごろガイ・ドイッチャーの『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』でウォーフの思想に触れた事が、ウォーフ関係のツイートをしだす転換点になったようだ。 

 

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1.5 山川のツイート(2017・10/28)におけるウォーフの「普遍的認識」

 そろそろ本題に入ろう。山川賢一のウォーフ理解はどうなっているのか。以下に引用する。

 

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  山川によると、ウォーフ(や「ポモ」)は「諸言語による思考は絶対的に異質なので人間は普遍的認識をもてないと考えてる」そうだ。これが筆者が下記論証によって批判する山川の主張である。  

2 論証

2.1 太田(2001)論文におけるウォーフの「普遍的認識」

  ウォーフの「普遍的認識」に対するスタンスの、先行研究を取り上げる。「日本エドワード ・サピア協会研究年報」2001年3月・第15号に掲載された、太田智加子*3の論文「ウォーフの言語相対性原理の本質に関する一考察 ―Benjamin Lee Whorf Papers の調査から―」である。太田氏は現在国立大学法人筑波技術大学専任講師で、ウォーフ研究を中心に活動されている。太田 智加子 - 研究者 - researchmap

 太田(2001)は興味深い指摘をしている。以下、原文のまま引用する。

 

 一般に考えられているウォーフの言語論と、実際のものとの間にみられるずれの主要な点のひとつに、彼は、個別言語間の相違性に偏重していたよう考えられがちであるが、じつは人類言語の普遍性への強い志向性があった、ということが挙げられる。

太田(2001, p.54)

 

 つまりウォーフの言語論は、「相対性と普遍性」の二段構えになっていると整理することができる。山川の解釈はその一段目のみを取り出して、「個別言語間の相違性」を強調したものと言える。「諸言語への多様な入口/諸言語からの多様な出口を与える普遍的な思考原理」(太田 2001, p.55)のことをウォーフは論じている。個別言語を超えて「普遍的な思考原理」へ至ることは、すなわち個別言語の縛りを超えたコミュニケーションが可能であることを示唆する。つまり、この段階において「諸言語による思考は絶対的に異質なので人間は普遍的認識をもてない」という主張をウォーフに帰した山川の解釈は、成り立たないのである。

 

2.2 山中(2011)論文におけるウォーフの「普遍的認識」 

 次に山川自身がツイートで言及した、山中桂一の論文「二つの日本語論」(2011)を取り上げる。山中氏は言語学の大家であるようだ。山中桂一 - Wikipedia

 

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 山川は最近、上記のように<<ウォーフはオカルト>>という論点を押し出してきた。しかし「諸言語による思考は絶対的に異質なので人間は普遍的認識をもてない」とウォーフは考えてるとした山川のウォーフ解釈と、オカルトという論点は直接的関係にない。

 加えて以下であすかい氏が指摘する通り、山川が引用した上記論文においては、「通説とは違ってかれの学説が言語決定論とは無 縁である」という山川に都合の悪い内容が含まれていた。

 山川はこの都合の悪い個所は引用していない。あすかい氏は以前から山川のデタラメなウォーフ解釈に異議を唱えてきた。

 

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  あすかい氏が指摘する通り、山川の認知には、おのれの立場に都合のいい部分だけしか引用しない、理解しようとしない傾向がみられる。反証事例には目をつぶる。山川が一時期心酔していたカール・ポパーが知ったならば、墓場から蘇って火かき棒で殴るレベルの、反証主義とは正反対の態度であるだろう。

 山中(2011, pp.28-29)は以下のように、ウォーフの言語論がやはり数段階に区別できるものであり、その上位の段階において、個別言語の相対性を超えた「知の実相」があることを示唆する。

 

ここでは、通説とは違ってかれの学説が言語決定論とは無縁であるという点を指摘しておくだけにとどめる。もし、「ひとは、語り得ぬものについてひとは黙さねばならない」、あるいは「言語の限界が世界の限界である」という警句が決定論の極点であるとしたら、ウォーフはこれとは逆に、言語を脱ぎ捨てたはてに知の実相が姿を現わすことを論証しようとしているのである(決定論のべつの側面については後述)。

 

さらに 山中(2011, p.25)には、ウォーフが科学的実在論者であることを示唆する、下記のウォーフ発言からの引用がある。ここを素通りする山川の心理とは、一体どのようなものだろうか。「物理世界」を前提するウォーフが、「人間は普遍的認識をもてないと考え」るのでは、明らかに矛盾するのではないか。もちろんウォーフが混乱しているわけではなく、山川の解釈に矛盾があるのである。

 

「ちょうど言語がばらばらの分節的記号化と構造的秩序との二層から成り立っており、そして後者がより包括的な背景をなしているのと同じように、物理世界も、個々別々に対象を取りあげて見るのでは充分に理解することができず、実際はむしろ構造と秩序の複合体をなすような諸原因の場からたち現れる、見た目には離散的な実体(原子、結晶、生命体、惑星、恒星、その他)の集まりではないだろうか」(Op・cit.,269)。

 

 山中(2011)の上記ウォーフ解釈は、山川におけるウォーフの「普遍的認識」の 解釈とは非常に折り合いが悪い。「言語の限界が世界の限界である」ではないのだから。下記のように、山中(2011)の解釈と山川の解釈のあいだには、明らかに両立できない差異がある。

 

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山川は「サピア=ウォーフは言語が思考を限界づけるという考え」と主張するが、山中(2011)はこれと正反対の事を主張している。また太田(2001)の解釈と山中(2011)の解釈には共通性が大きく、両者の解釈の信頼性は高まった。

 

3 考察

 以上の論証で、太田・山中という二人の研究者のウォーフの「普遍的認識」に関する解釈と、山川のそれとの隔たりは大きいことが示された。しかしウォーフの普遍的認識への志向と、山川が批判するウォーフのオカルト的面は、どういうふうに関係するのだろうか?整合性はあるのだろうか。

 

 次回記事に向けて、先走って大雑把に筆者の見解を述べる。

 ウォーフはある種の数学的プラトニストである。 ウォーフによれば、宇宙の構造は数学言語などに似た言語的ななにか(「パターン」)である。物理学者は「数学の公式」(『言語・思考・現実』, p.195)に触れて、「意識を素人では考えられないようなレベルに置き」(p.195)、この構造を認識しているそうだ。

 宇宙には確固とした実在があり、科学的言語を改良することでそれを認識しうると考える点で、ウォーフは認識において大雑把に「近代」の枠内にいると考えられる。筆者の知識不足もあり、ウォーフのオカルト傾倒と自然科学的スタンスの関係性は、今のところ十分にはわからない。端的には、ひとは「悟り」のようなものによって意識を変え、科学的認識を高めうるという発想がウォーフにはみられる。

 いずれにせよウォーフのオカルト思想は、彼の思想全体との関連と整合性において理解する必要があると思われる。 

*1:スティーブン・ピンカー[著]、椋田直子[訳]『言語を生みだす本能(上)』, NHKブックス, 1995年, p.83.

*2:ガイ・ドイッチャー[著]、椋田直子[訳]『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』, インターシフト, 2012年, p.176.

*3:2018/4/25更新。「太田千賀子」と誤記していると指摘を受けました。大変失礼いたしました。