山川賢一検証blog

批評家・山川賢一(@shinkai35)の言動を検証するblogです。誤りのご指摘・ご意見はyamakawakenshoあっとgmail.comまで。

山川賢一の「論証のやり方」について

1 記事の背景

 筆者がなぜ山川賢一の検証を始めたのか。それは山川賢一の「論証のやり方」の中に、「ポスト真実」的なものを発見したからである。思い込みや事実誤認は誰にでもあるが、山川のやっていることはそうした素直なものではない。どういうことなのか。以下で順を追って説明する。 

 

2 最近のウォーフ批判の背景

 山川はここ最近言語学者・ベンジャミン・ウォーフへの批判に精を出し、最近はウォーフに関し「こんなどうでもいいオカルト野郎*1と罵るなど、精神を加速している。一体どうしてウォーフなのか。その大きな理由は、山川によると「ウォーフの学説はポモ(ポストモダニストそっくり」だからだ。

 

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 山川によるとポストモダン側(誰のことか不明だが)は、「言語や文化が知覚に影響する、よって文化圏により現実認識には埋めがたい溝がある、よって科学は信頼できない」という論法を使うらしい。

 そしてポストモダン側もウォーフも「言語が知覚に影響する」と主張している。加えて「諸言語による思考は絶対的に異質なので人間は普遍的認識をもてない」と考えている点が、山川によると共通している。山川が理解する「ウォーフ」の言語相対論によると、身に着けた言語が異なることの影響によって、「普遍的認識」をもてなくなるほど、知覚や思考が強く歪んでしまうのだ。「山川ウォーフ」によれば 知覚は普遍的ではない

 

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 このためウォーフを批判することで、「ポモ」(ポストモダニスト)の批判もできるというわけだ。

 

3 最近のウォーフ解釈論争

 ところで山川の色々なふるまいがあまりにも杜撰であるため、筆者以外にも疑問を呈し、直接ウォーフの著作を読んで、山川を批判する人たちが現れ始めた。<<いや、ウォーフそんな強いこと言ってなくない?特定の解釈者がへんな解釈をしてるだけじゃ・・・>>という幾人かによるツッコミを、最近の山川は以下の議論で退けている。

 

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 上記主張の根拠に、山川はウォーフの主要論文集『言語・思考・現実』「講談社学術文庫版ウォーフの138-139から引用」したと、具体的な論拠を引用して見せている。

 

 さて、ここからが本題だ。「山川ウォーフ」の主張は、本物のウォーフの主張と一致するのか?上記の山川の要約が、そもそも山川の歪曲なのである。このことをまずは示す。山川は『言語・思考・現実』からの引用個所を以下2ツイートで提示している。

 

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山川が、知的には」というウォーフの慎重な限定を「省略」した行為がお分かりだろうか?超スピードの詐術で見えなかった人もいるかもしれない。だが確かに「知的には」が省略されている。

 この慎重な限定で、ウォーフは「知的な領域において『空間』[の概念]は『外的な概念』と混ざりうる」ことを示唆しつつ、「知的な領域以外」についての主張だと誤解されないようにしている。加えて、例えば「おそらく空間の認識というのは言語に関係なく、経験上、同質」である、と直前の行でちゃんと書いているのである。山川はこのウォーフの論述を完全に無視している。

以下に、山川の主張に反するウォーフの主張個所を青色で引用する。加えて、山川が引用したウォーフの主張個所を赤色で引用する。

 

 (以下、ウォーフ『言語・思考・現実』p.138から引用)

われわれの「空間」の概念というものはどうであろうか。空間については、時間の場合ほどホーピ族とSAE[注:「平均的ヨーロッパ標準語」のこと, 同書, p.102]の間で著しい差はない。おそらく空間の認識というものは言語に関係なく、経験上、本質的に同一の形で与えられるのであろう。このことはゲシュタルト心理学者が視覚について行った実験によって事実として認められているようである。しかし、「空間の概念」というものは言語によっていくらか変わるものである。なぜなら、知的な手段として考える場合、それは同時に用いられる他の知的な手段、すなわち、「時間」とか「質料」とかいった言語的に条件づけられているものの体系との併用ということに密接に結びついているからである。われわれはものを目で見るとき、ホーピ族と同じ空間的な形として捉える。しかし、われわれの空間の概念は、時間、強度、傾向などという非空間的関係の代用として、また、無定形として想定されるところのものによって満たされるべき空所として機能するという性格も持っているのである。そして、『空間』という表現はそのような無定形として想定されたものの一つを指して

(ここまでがp.138)

(ここからがp.139)

すら使えるのである。ホーピ族の知覚する空間は知的にはこのような代用物との関係はなく、外的な概念と混っていないという意味で、比較的「純粋」だと言えよう

 

 まず補足すると、 「知的な手段として考える場合」に関し、ウォーフは「「ニュートン的」、「ユークリッド的」空間などというものもこれに含まれる」(p.142)と注をつけている。

 先述した「知的には」というウォーフの限定を山川は省略し、都合よく「要約」した。このため、あたかもウォーフが「ホーピ族の知覚する空間」(非-知的な空間)が「概念」と混じると言っているかのような「誤読」が出来上がる。付け加えると、この省略状態でもウォーフは「知覚が概念と混じる」とはいってなくて、「ホーピ族の知覚する空間」が「概念と混じりうる」という意味のよくわからない表現のままのはずだ。これでは意味不明だから、山川は第二段階として「空間」という語を削除し、「つまりウォーフにおいては、「概念」は「知覚」と混じり、「知覚」を変容させるのです」という藁人形(山川ウォーフ)を作り上げた。これは誤読ではなく積極的な創作行為である。

 付け加えると、「概念」も「知覚」も曖昧で文脈によって意味が決まるんだから、ちゃんとウォーフの意図を汲まないとダメでしょ。ウォーフが言ってるのは「空間」とひとことで言っても、言語構築的な部分とそうでない部分があるというはなしなのだが。(後日、別の記事で先行研究を引用する予定)

 

 ところで上記p.138という同一ページに、山川の読みに再考を迫る「反証」の証拠が目に入ってくる。空間の認識というのは言語に関係なく、経験上、本質的に同一」という個所と、これに対比される「しかし、「空間の概念」というものは言語によっていくらか変わるものである」というウォーフの主張個所である。 この箇所が目に入らないということが、あり得るだろうか。もう一度p.138-139の引用個所を確認するか、できれば『言語・思考・現実』に直接あたってほしい。山川は、意図的に自分に不利な証拠を黙殺しているのではないか。

 

 蛇足かもしれないが、前後の文脈を考えれば、以下の山川のラッコ=筆者に対する反論は的外れであると伝わるのではないか。

 

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 ラッコ=筆者は山川のように「概念が混入」などとはいっていない。あなたが好きな表現でいうと、それは「誤読」です。むしろ分離しうる普遍的「心理的部分」に「プラス」して、変わりうる「概念の部分」を乗せたもの。すなわち二階建てのイメージで読むのが適切だと言っている。「おそらく空間の認識というものは言語に関係なく、経験上、本質的に同一の形で与えられるのであろう。このことはゲシュタルト心理学者が視覚について行った実験によって事実として認められているようである」というウォーフの主張でわからないとおかしいのではないか。

 筆者の解釈もまた図式的であり不正確ではあるだろうが、少なくとも「山川ウォーフ」の10倍くらいは「マシ」であると今も言える。というのは、この理解はウォーフ研究者による幾つかの先行研究に対して、「山川ウォーフ」よりはるかに両立可能なものだからである。これから記事を書くつもりです。

 

ちなみに山川のウォーフ解釈を批判してきたあすかい氏はこう解釈している。

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繰り返すと、山川はウォーフの主張における自分に都合の悪い箇所を引用せず、言及もしない。果たして、たまたまの「不注意」から、こうした証拠の黙殺が起きるものだろうか?

 前回書いた記事でも、山川が同じ手口を使っていることを指摘した。

山川賢一のウォーフ解釈:ウォーフにおける「普遍的認識」 - 山川賢一検証blog

 

 頭の片隅くらいに置いてほしいのだが、山川はこういう手口を使う。彼の書くあらゆる文章には、こうした「情報操作」がされている可能性がありうる。彼のファンは気づいている様子がない。寒々しい光景である。

 

 筆者も何年も山川をフォローしていたが、ごく最近まで気付けなかった。違和感から検証を始めてようやく気付いた。

 山川の単なる「誤謬」を「ウォーフ警察」としてあげつらったり、取り締まるのが筆者の意図ではない。山川が論争相手を叩くやりかたに疑問を抱き、こうして細かく検証した結果、彼がどういうことをしていたのか、徐々に分かってきた次第である。

 

 ある意味で、山川は「ポスト真実」時代に適応した天才であるといえるのではないか。(適当だけど) 

 

ポスト真実の政治(英:post-truth politics、真実後の政治[1])、ポスト事実の政治(英:post-factual politics)とは、政策の詳細や客観的な事実より個人的信条感情へのアピール英語版が重視され、世論が形成される政治文化である[2]

ポスト真実の政治 - Wikipedia

 

ポスト真実の政治における論証は、政策の詳細は欠けており、断言を繰り返し、事実に基づく意見・反論は無視される。伝統的な議論とは異なっており、事実が歪められ、二次的な重要性を与えられている。

ポスト真実の政治 - Wikipedia

 

山川賢一のレイコフ引用

 山川は最近も、<ポストモダンが生まれた一因はウォーフ説にある>*1と繰り返す。ウォーフは「ポモ/ポストモダン相対主義」の親玉だとする、以前の主張の反復である。山川によると、ウォーフや「ポモ」は「諸言語による思考は絶対的に異質なので人間は普遍的認識をもてないと考えてる」*2。そして今回山川は、レイコフがウォーフのことを「20世紀最大の相対主義者と呼んでる」と主張した。

 確かにほんの表面だけなぞるなら、レイコフが『認知意味論――言語から見た人間の心』*3の第18章「ウォーフと相対主義」)で、ウォーフのことを「今世紀の最も著名な相対主義者」(p.370)と呼んでいることは指摘できる。

 

 

 ところがレイコフ自身は、ウォーフを素朴に相対主義者だとは考えていない。「ウォーフは分類しにくい人物であった。彼のことを単に相対主義者であると考えてしまうと,あまりに極端に割り切りすぎているということになる」(『認知意味論』, p.397)

 

山川はレイコフの『認知意味論』を引合いにだしている。ならレイコフのウォーフ解釈も取り入れないんですか?と聞きたくなる。レイコフはウォーフのことを「客観主義」と呼んでいるが、その理由は以前、記事で詳しく説明した。

 

レイコフvs山川賢一:ウォーフにおける「普遍的認識」 - 山川賢一検証blog

 

レイコフはウォーフについて、「彼は客観主義的現実が存在するということを信じていた。そして彼は,言語に組み込まれた概念体系のうちのあるものだけがかなり正確にその現実に適合し得ると信じていた。」と述べている。また、「彼は,諸言語はその概念体系においてそれぞれ異なっていると信じていたが,諸言語のうちのあるものは他のものよりも正確で,従って科学の研究により適していると信じていた。」*4とも述べている。これは「諸言語による思考は絶対的に異質なので人間は普遍的認識をもてないと考えてる」とする山川賢一的「相対主義」ではないし、「ポモ」的見解でもない。

 レイコフはそれだから「彼[ウォーフ]のことを単に相対主義者であると考えてしまうと,あまりに極端に割り切りすぎているということになる」と評したのである。

 

 以上のレイコフの主張を踏まえて、山川の「レイコフは『認知意味論』で、ウォーフを20世紀最大の相対主義者と呼んでる」*5というツイートを振り返ろう。私が知る限り、これに最も近いレイコフのテキストは「第三に,私は,今世紀の最も著名な相対主義者,ベンジャミン・リー・ウォーフの見解について論ずる。」(p.370)である。この発言は第18章「ウォーフと相対主義」の冒頭にある。そして先ほど引用したレイコフの「彼のことを単に相対主義者であると考えてしまうと,あまりに極端に割り切りすぎている」というテキストは、実は、全く同じ第18章「ウォーフと相対主義」の後半部分の主張なのである。

 それゆえ整合的に読むならば、レイコフは<ウォーフは今世紀の最も著名な相対主義者とされているけれども、実際は違うよ>、という反語的な意図で「今世紀の最も著名な相対主義者」と書いたことになる。

*1:https://twitter.com/shinkai35/status/1026383345922404352

*2:https://twitter.com/shinkai35/status/924088265866584064

*3:池上嘉彦・河上誓作ほか訳『認知意味論――言語から見た人間の心』, 紀伊國屋書店, 1993年, pp.370-413.

*4:『認知意味論』, p.395-397

*5:https://twitter.com/shinkai35/status/1026387866182606848

山川賢一における「ピーター・シンガー」の使用について

 

 山川は倫理学ピーター・シンガーの『実践の倫理』に照らして、複素数太郎がまちがっていると主張する。今回はこの主張を検討する。

 

 しんかい38(山川賢一)「ぼくは動物倫理にくわしいわけではないので、くわしい方のコメントが欲しいのですが、さっき実践の倫理をチェックしてみたとこでは、複素数=神宮がまちがっていると思いますよ。 」

https://twitter.com/shinkai35/status/958585222639038464

 しんかい38(山川賢一)「ちなみにシンガーは「私の議論の目的はむしろ動物の道徳上の地位を高めることであって、誰であれ人間の地位を引き下げることではない」と述べ、動物倫理が障害者差別につながるというのはふたしかな未来予測にすぎないのだからそんなものをもちだすなといってる。」

https://twitter.com/shinkai35/status/958596587638444034

 

 上記にぶら下がる一連の山川のツイートは、「シンガーによれば~である」という論調なのが気になる。シンガーの見解のみが100%正しいか、または複素数太郎がシンガーの見解を重視しているならば、「複素数=神宮がまちがっていると思いますよ」と述べる山川の話は十分納得できる。しかし山川と関係の深い借金玉は、uncorrelated氏との議論で次のように同氏を批判する。

借金玉 「@uncorrelated @shinkai35 大分途中で無茶した。複素君がシンガーを踏襲してないことが前提なのにシンガーアタックかけて来たのも意味不明だったし。読み返すと大分キツいと思いますよ。シンガーを前提としてない論をシンガーで拾ってやってどうすんの。」(※元ツイートは「存在しません」となっているが、togetterに残っている。下記。)

https://twitter.com/syakkin_dama/status/1015363411121561600

https://togetter.com/li/1244445?page=7

uncorrelated「@syakkin_dama @shinkai35 複素数太郎氏は誰か道徳的地位を持つべきかと言う意味でパーソンについて考え出していますが、シンガーのパーソン論は採用していませんね。複素数太郎氏が何をパーソンとして認めるかについては、あの文章からは明らかではありません。生物学的系統分類からは定められないとしか言っていませんから。」

https://twitter.com/uncorrelated/status/1015354650411745281

 借金玉「@uncorrelated @shinkai35 そうですね。シンガーと無関係ですね。なんでシンガーの話をこんなにされたんでしょう。アンコリさん自分が何の話してるのか見失ってるでしょ。」(※元ツイートは「存在しません」となっているが、togetterに残っている。下記。)

https://twitter.com/syakkin_dama/status/1015354792460185600

https://togetter.com/li/1244445?page=6

 

借金玉によると「複素数太郎はシンガーを踏襲してない」。よって借金玉が正しければ、複素数太郎がシンガーの見解を重視している、という事はない。確かにブログでもツイートでも複素数太郎=神宮はふりは「シンガー」の名を重視していないようだ。発端の記事を「シンガー」で検索しても全く出てこないから。

神宮はふり「ヴィーガニズム=シンガーと考えるの,さすがに理解不能だな.」*1

神宮はふり「シンガーがヴィーガン聖典説なんなんだ,ヴィーガンが全員そこまで単純な思考してるなんてことはないと思うけど.」*2

 

ではなぜ山川はシンガーと『実践の倫理』の見解を絶対視するのか。理由は不明だが、次に示すように、全てのヴィーガンがシンガーを絶対視しているわけではないようだ。

 

 ひとまず、「『実践の倫理』によればあなたはまちがっていると思いますよ」という使い方は乱暴であるようだ。借金玉が別の人に向かって「シンガーを前提としてない論をシンガーで拾ってやってどうすんの。」と怒っているが、山川にも玉が当たる。

 

山川賢一の複素数太郎解釈について

 はじめに

 前回の記事は、複素数太郎の論法に焦点を合わせたものだった。

 私は複素数太郎の当該記事を読み、また複素数太郎の本垢も別垢「神宮はふり」もフォローしている。山川さんの以下の複素数太郎解釈には、「なんでこうなるの??」と大きな違和を感じる。

 そこで今度は、山川さんの解釈により焦点を当てた検討をする。先に付け加えておくと、山川さんがスクリーンショットで「前回の山川検証blog記事と今回の記事はここが矛盾している!」とやる事は、可能性は低いがありそうである。とはいえ「山川賢一」でググる本人のblog を差し置き、このブログが3位に出てくる(2018/07/14,15時現在)謎の現状で、本ブログのPVが多少増えてしまいそう。もちろん私が前回記事から考えを改めることもあるでしょう(もちろん、単に曲解されることも)。

 

 

【論じられている複素数太郎の記事】

ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか - ひとなぐりこけし

 

1 10個くらいに分割した後で指摘

  まず山川の上記主張を短い文にそれぞれ分解・リライトしてみた。(全部使うわけではない)

 

(1)複素数太郎はヴィーガニズムを人間の定義困難性によって正当化している。

 

(2)複素数太郎は、従来の人権主義の弱点は「人間の定義困難性」であると主張している。

 

(3)複素数太郎は、ヴィーガニズムは(2)の弱点を克服する説であると主張している。

 

(4)複素数太郎のロジックは、反動物愛護派の「すべり坂論法」に似ている。すべり坂論法は「「生物学的人とそれ以外」というわかりやすい基準でなく「パーソンとそれ以外」という不明瞭な基準を採用すると、障碍者が人間扱いされなくなったりする危険がある!」という。


(5)複素数太郎のあの論考だと、ヴィーガニズムはたんに人と動物の差別をなくせという主張であるかのように扱われている。

 

(6)じっさいのヴィーガンは、意識の有無など別の基準で道徳的取扱いの対象となるか否かを分けている。

 

(7)ヴィーガンはより明瞭な定義の難しい区別へとあえて移行している。

 

(8)伝統的な人権主義は、生物学的な人のみを道徳的に取り扱う。

 

(9)ヴィーガンは、意識の有無などの諸条件で、パーソンとそうでないものを分ける。

 

(10)ヴィーガンは伝統的人権主義より「境界のはっきりしない区別」を採用している。

 

(11)複素数太郎はヴィーガニズムは「人間の定義困難性」を克服していると主張する。しかし実際のヴィーガンにおける人間はより境界のはっきりせず、明瞭な定義の難しい区別をしている。

 

 (1)に関して。

(1)複素数太郎はヴィーガニズムを人間の定義困難性によって正当化している。

まず記事の冒頭で複素数太郎は、自分はヴィーガンでもフェミニストでもないと断っている。これが彼の「立場」。次に山川は、(a)「ヴィーガンの使う論法を援用すること」と(b)「ヴィーガニズムを正当化すること」の区別をしていない。複素数太郎は(a)を行ったが、(b)は行っていないと考えるのが妥当だ。なぜなら冒頭で自分はヴィーガンではないと述べているし、【追記】においてヴィーガニズムの価値観にも論法の一つにも、反対しているからだ。

 

 (3)に関して。

(3)複素数太郎は、ヴィーガニズムは(2)の弱点を克服する説であると主張している。

山川は複素数太郎のヴィーガニズム解釈を、(5)「ヴィーガニズムとはたんに人と動物の差別をなくせという主張」だと解している。

 よって山川によると複素数太郎は、ヴィーガニズムは「人と動物の差別をなくせ」と主張することで、(2)従来の人権主義の「人間の定義困難性」という弱点を克服すると主張している。意味が明瞭ではないが、やはり山川は「人間の定義困難性」に関する複素数太郎の背理法っぽい論法(※前回記事参照)を、特定の思想的「立場」と混同しているのではないかと見られる。

 ある論法を援用することと、なんらかの主義主張・思想的「立場」に自分が身を置くことは別の話である。例えば「フェミニストの誰々はAであると主張するが、別の箇所では非Aのように振る舞っている」という型の指摘は、何もフェミニストに対してのみ使えるものではない。また自身が反フェミニストの「立場」にいないと使えないものではない。不整合性や矛盾と呼ばれる状態があれば、誰がどんな主義主張に対しても用いることができる。

 

 (6)と(7)と(9)と(10)と(11)に関して。

(6)じっさいのヴィーガンは、意識の有無など別の基準で道徳的取扱いの対象となるか否かを分けている。

(7)ヴィーガンはより明瞭な定義の難しい区別へとあえて移行している。

(9)ヴィーガンは、意識の有無などの諸条件で、パーソンとそうでないものを分ける。

(10)ヴィーガンは伝統的人権主義より「境界のはっきりしない区別」を採用している。

(11)複素数太郎はヴィーガニズムは「人間の定義困難性」を克服していると主張する。しかし実際のヴィーガンにおける人間はより境界のはっきりせず、明瞭な定義の難しい区別をしている。

山川は分かりやすい文章を書く人であるように見られている。しかしこれらが明晰な書き方であると私は感じない。この点を以下で説明する。

 山川によると、ヴィーガンはパーソンとそうでないものの区別を「意識の有無などの諸条件」で行っている。これは「定義の難しい区別」であるとも述べる。ところで山川は、上で「意識の有無などの諸条件」と明確に書いて、言語的に定義・区別できていたはずではないだろうか?本当は「意識の有無」の定義が困難なのではなく*1、他人の「意識の有無」を実際に観測することが難しいと、山川は言うべきだっただろう。揚げ足取りみたいだが、言葉使いに関する私の指摘が正しければ、ヴィーガンが「より明瞭な定義の難しい区別へとあえて移行している」とする山川の解釈は、間違いである。適切に書き直すなら「より観測の難しい区別へとあえて移行している」となる。

 前提に疑問を投げかけると、「意識の有無」は本当に観測困難なのだろうか。これは哲学的にありふれた問題ではあるが、日常的にはわれわれは他人に「意識がある」「意識がない」という事を、振る舞いなどを根拠に判断して、主張する。誰かが倒れていて呼びかけに反応しなければ、意識がないと判断する。このとき定義はもちろん観測においても大きな困難はない。哲学を脇に置けば、判断を間違える事はそんなに多くなさそうだ。このように意識の有無の観測困難性の見積もりは、論者の語りたい事によりかなりの幅を持つ。ヴィーガニズムが必ず抱える困難とは言えないのではないか。

 従来の人権主義の弱点が「人間」という言葉の定義困難性にあったと山川的に仮定しても、定義困難性の問題は、ヴィーガニズムの抱えうる意識の観測困難性の問題とは別である。

 加えて、「感覚の有無(や機能の仕方)でパーソンとそれ以外を区別するならば、「感覚障碍者*2はパーソンではないことになる」といった論法のほうが複素数太郎的である。この場合、感覚の言語的定義が明瞭で、かつ観測が容易であったと仮定しても、複素数太郎的問題意識が生じる。下記。

もうひとつは、ヴィーガンが動物と植物を分ける際に用いる論法――たとえば “感覚” にかんする科学的根拠の提示――もまた、アンチヴィーガンが “人間” 概念の内外を画定するときと同様、ある症状を持った障害者が排除されかねない、一歩間違えれば優生思想に転じるようなものである、という理由だ(もちろん、僕が不勉強なだけでその批判への応答は用意されているのかもしれない)。

ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか - ひとなぐりこけし

  そのため複素数太郎の記事に対し、言語的定義の「明瞭さ/不明瞭さ」を焦点とした山川の読みは、やっぱり大きく外している。

 また哲学的にはともかく、医学的に「感覚障碍」を診断する事はそれほど困難ではないように思う。つまり定義・観測において比較的明瞭である。しかし複素数太郎的問題意識は生じる。複素数太郎の論が、山川が拘る「明瞭な定義(=よい定義)」をゴールとしていない事は、記事を読むと分かる。

 そもそも複素数太郎が「ヴィーガニズムは従来の人権主義の弱点を克服する」(3)(11)旨を、記事で述べているように思えない。複素数太郎は【追記】で、ヴィーガニズムの論法もまた「ある症状を持った障害者が排除されかねない、一歩間違えれば優生思想に転じるようなものである」と評している。

 

 (4)に関して。

(4)複素数太郎のロジックは、反動物愛護派の「すべり坂論法」に似ている。すべり坂論法は「「生物学的人とそれ以外」というわかりやすい基準でなく「パーソンとそれ以外」という不明瞭な基準を採用すると、障碍者が人間扱いされなくなったりする危険がある!」という。

山川の『実践の倫理』解釈によると、複素数太郎の「ロジック」は反動物愛護派が使うすべり坂論法に似ている。この箇所は、まず「障碍者が人間扱いされなくなったりする危険がある!」という結論部のみは、確かに複素数太郎の記事と反動物愛護派に共通している。しかしこの部分の類似のみでは「ロジック」にならない。

 他の記述に関して。「ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか」のゲノム論を踏まえるなら、複素数太郎は「生物学的人とそれ以外」の区別が「わかりやすい」基準であるとは考えても、倫理的問題を生じないとは言わないだろう。この点で反動物愛護派と複素数太郎の認識は異なるのではないか(山川のツイートでしか知らないが)。

 残った部分をつなぎ合わせると、「不明瞭な基準を採用すると、障碍者が人間扱いされなくなったりする危険がある!」という主張を作れる。しかし複素数太郎は「ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか」において、「不明瞭な基準を採用すること」で問題が起きると主張したいのではないだろう。なぜなら、ゲノムによる定義が分類方法として明瞭であればこそ、複素数太郎は「人間とそれ以外の動物は、ゲノムを調べてやることでうまく分類することができそうだ」と述べる事ができるからである。問題は、ゲノムによる“明瞭な”境界設定が「副作用」的に、遺伝的疾患をもつ者や発達障害者を「標準的人間」から区別し、その区別を理由にした価値・権利的別もの扱いが行われる危険がある点である。誰かが道徳的配慮の対象となる「パーソン」から一段劣る「準パーソン」などとして上記の人々を位置付ける理由にゲノムを用いないとは限らない。

 これは事実と価値を混同した、倫理を自然化する架空の論者を勝手に想像した、空理空論だろうか。歴史を振り返ろう。例えば我が国で1940年代に成立した国民優生法は、「悪質ナル遺伝性疾患ノ素質ヲ有スル者」の増加を防ぎ、「健全ナル素質ヲ有スル者」の増加をはかり「国民素質ノ向上ヲ期スル」ことを目的とする。実際に遺伝的疾患者などに対する不妊手術が行われた。国民優生法の優生思想は、戦後優生保護法にも受け継がれた。

(【参考】優生保護法母体保護法/国民優生法 http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/8Y/yu_eugenic_protection_act.html

 

よって過去に実例はある。全くの空理空論ではない。歴史と観察を踏まえると、我々が「分類」と「欠陥品扱い」における意識的・無意識・明示的・暗示的な「関連づけ」をしていない/今後はしないと前提するのは危うい。こうした歴史がどれだけ念頭にあったのか。いずれにせよ複素数太郎の「隠れた優生思想をあぶり出す」試みが的外れとは言えない。「不良な子孫の出生防止」を掲げ、我が国で障碍者に対する「強制不妊手術」を定めた優生保護法がなくなったのは1996年のことで、大昔ではない。

(【参考】 “私は不妊手術を強いられた” ~追跡・旧優生保護法~ - NHK クローズアップ現代+ )

 

2 終わりに

 使わなかったパーツがあるかもしれない。

*1:それとも山川には、「意識がある」という言葉と「意識がない」という言葉の区別が難しいのだろうか。それで哲学的相対主義を批判していたのならば片手落ちとなる。

*2:例えば遺伝性の疾患、先天性無痛無汗症では「全身の温度覚(熱い冷たいを感じる)と痛覚(痛みの感覚)が消失」するそうだ。http://www.nanbyou.or.jp/entry/4360 

複素・山川のヴィーガニズム論争について

 

 「ヴィーガニズム」に関する件で、山川賢一さんが複素数太郎を猛烈批判している。たまたま読んでみると山川が誤読している可能性が高かったので、指摘する。

 

 

 

あすかいさんの言及で関心を持ったのだが、山川のアカウントに行くと複素数太郎を叩き潰すためにRTを多用して非常に読みにくい。本人も以下のように言っているので、これらのツイートを元に論述を行う。

 

 

 発端となった記事は複素数太郎の「ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか」である。

sutaro.hatenablog.jp

 

1.複素数太郎の論述はどういうものだったのか?

 複素数太郎によると、「もともとの問いは「フェミニストは乳製品を食べてもよいのか?」」であり、「ヴィーガンRac氏からフェミニストのシュナムル氏に発せられたもの」だった。具体的には以下である。

 

これは突飛な問題提起――たんにその場をかき乱すためだけのもの――に見えるかもしれない。彼ら(ヴィーガン)の論拠はこうだ。

①乳牛は人間によって性交を管理され、生まれてきた子供は取り上げられてしまう。これを生産性が維持できなくなるまで何度も繰り返す。

②これがもし人間の女性についての事実であれば、フェミニストは必ず批判するだろう。

③よって、フェミニズムを徹底するならこのような生産方法を許容すべきではない。①と②は端的に事実である。さて、これらから③を導くものはいったいなんなのか。

 

複素数太郎「ヴィーガンフェミニズム論争とは何だったのか」より引用)

 

 まずは上記記事における複素数太郎の論述を要約する。もし私の解釈が正しければ、山川は複素数太郎の記事を誤読している。

 記事における複素数太郎の論法の基本的発想は、背理法またはそれに似たものである。「人間と動物を区別できる」と仮定し、その根拠を検討すると倫理的に問題が生じることを示す流れだ。言い換えると「これって不都合じゃない?」という違和感が生まれる。

 私の感想だが、人間とは倫理的な定義とそれ以外の定義の複合であることが示唆されてもいる。

 まずはじめに注意しておかなくてはならないが、複素数太郎は「人間と動物は区別できない」と主張したいのではない。実際、彼は人間と動物を区別する方法をいくつか「提案」している。何らかの手法を用いれば、「人間と牛」は区別できる。もし複素数太郎の主張が、「人間と動物は区別できない」というものであったならば、彼がゲノムやらを持ち出す論述は無駄である。無駄なことをえんえんと書くわけはないのだが、山川の理解はここで終わっている。

 

山川は他にも、複素数太郎は「人とそうでないものは厳密には区別できない」と主張した*1旨を述べている。

 また山川は「ヴィーガニズムは従来の人権主義の弱点だった「人間の定義困難性」を「克服」する」という説を、複素数太郎が主張したとする。しかし【追記】で複素数太郎は同様の定義困難性がヴィーガニズムに生じうる、また障害者差別につながりうることを指摘している。つまり山川の「克服説」が誤りである。

 

 複素数太郎が主張したいこと、問題意識は、人間と動物を区別するために提案された手法を検討すると、別の領域において倫理的に不都合が生じる、ということにある。具体的に説明する。

 

提案(1):ゲノムの差異により判別する

「標準的なヒトゲノム」みたいなものを仮定できるのかもしれない。それで人間と動物を区別すればいいのでは?

→困った点。「標準的なヒトゲノム」を仮定したとき、これに対してダウン症やクラインフェルター症を患った人のゲノムは差異がある事になる。それゆえ牛と人間を区別できても、同じ基準でこれらの人々を標準的人間と区別することになる。それは倫理的な扱いにおいて人間と動物で対応を変えること、差異(差別)の根拠にもなりうるだろう。(フェミニストがアイスを食べてもいい論拠にも)

 

提案(2):人間特有の能力によって判別する

複素数太郎曰く「人間特有の能力として最もよく挙げられるであろうもの、それはコミュニケーション可能性だ」。

→困った点。自閉症スペクトラムなどの一見してわからないような “コミュニケーションに困難を抱えた人”が排除されてしまう。

 

以上二つの分類手法を検討し、複素数太郎は、これらは倫理的な問題を生じうるとする結論を導いた。繰り返し注意を促すと、彼は「人間と動物」を上記で分類している。それ自体は問題ではない。分類できないという話ではない。倫理的な扱いとの関連で、上記手法による分類に問題が生じるのだ。

本人によると、「“人間” の定義困難性にかんする議論は隠れた優生思想をあぶり出す」。これが記事の議論の大きな狙いである*2

 

2.複素数太郎はヴィーガニズムを誤解しているのか?

 山川によるとヴィーガニズムは「意識の有無などの諸条件でパーソンとそうでないものを分ける」という立場だそうだ。複素数太郎は記事でヴィーガンを擁護しているっぽいが、ヴィーガンの立場と矛盾するじゃないかというわけだ。また山川は「複素数太郎は人間の定義困難性をヴィーガニズムが克服したというが、実際のヴィーガニズムも定義困難性を抱えているので矛盾する」と言いたげだ。これに関してはあすかいさんも指摘している通り、複素数太郎の記事をまるで読んでいないようだという感想を山川に抱かざるを得ない。(本記事1.「つまり山川の「克服説」が誤りである。」のくだり参照)

 

 

 話題を変える。1.で検討した背理法は、「感覚や意識の有無でヒトと動物を区別する」という分類手法(提案3)に依拠しているわけではない。私の理解では山川は上記提案3に近いことのみをヴィーガンの立場とし、それと全然違うという理由で複素数太郎のヴィーガン解釈を批判している。

 これに関して、複素数太郎は

(1)「取り上げた立場はヴィーガニズムの定説というわけではないという声が挙がっているが、この記事では今回の議論でヴィーガン側が主に用いていた論法群の中でもとくに整合的なものをピックアップするに留めている」【追記1】

と述べている。

 また提案1と提案3を組み合わせて主張する事も、提案2と提案3を組み合わせて主張することもできる。例えば「意識がありゲノムが標準的なもののみが人間であると定義する」「感覚がありコミュニケーション能力が標準的なもののみが人間であると定義する」。逆に提案1や2を批判しつつ提案3を受け入れることもできる。

つまり色んな立場を構築可能だ。

矛盾するとは言えない。

 複素数太郎は「ヴィーガニズムは素朴には “種差別に抵抗する思想” と説明できる」と簡単に述べる。複素数太郎とヴィーガンがこの記事で共有していると前提する、その前提で読解する必要がある性質は、種差別に否定的である、という点のみではないかと思う。

 繰り返すが、山川が思うような「境界がはっきりしない」とか「する」という立場それ自体が問題なのではないのだ。ある分類手法を採用したときに起こる倫理的問題を考えてみましょう、という点が重要なことだと私は思う。

 

 最後に、検討範囲は上記複素数太郎の記事と山川の上記ツイートのみなので、何か間違っていたらご指摘お願いします。

 

追記1】

 私の書き方では「複素数太郎って人は、特定の分類方法と倫理的規範を混同しているのでは?」等の指摘がありそう。複素数太郎さんの別垢(神宮はふり)で本人の見解を羅列してみる。

 

1.倫理の「自然化」について

 

 

 

 

 

2.ヴィーガンやシンガーについて

 

 

 

 

 

 【続編記事】

山川賢一の複素数太郎解釈について - 山川賢一検証blog

*1:複素数さんの場合①「人の苦痛は問題視し、動物での苦痛は問題視しない、という区別をする根拠はない」②「人とそうでないものは厳密には区別できない」というロジックがチャンポンになってる気がしますね。ヴィーガンの多くは①を主張してるが、複素数さんは②を主張してるのでは」https://twitter.com/shinkai35/status/958248787213828096

*2:追記2】

ウォーフの「オカルト」思想について。

 山川は当初、ウォーフの言語的相対主義・認識的相対主義批判を行っていたが、このブログが彼の誤読を指摘してしばらくした後、<ウォーフの哲学はオカルト>という旨の批判に切り替えはじめた。以前も指摘したが山川のこの振る舞い、明らかに論点がズレているので、後出しで「発見」した論点のように見えるのですが。

 

山川は最近、上記のように<<ウォーフはオカルト>>という論点を押し出してきた。しかし「諸言語による思考は絶対的に異質なので人間は普遍的認識をもてない」とウォーフは考えてるとした山川のウォーフ解釈と、オカルトという論点は直接的関係にない。

 

山川賢一のウォーフ解釈:ウォーフにおける「普遍的認識」 - 山川賢一検証blog

 

かくいう私も、最初にウォーフの『言語・思考・現実』を通読した際、後半部にヨガで認識を高めることが出来る、といった示唆*1を見かけて、変なことを言うなあと思ったものである。確かに山川の言うように、『言語・思考・現実』の後半部はインドの古代思想や、神智学への言及で彩られている。私はこれらの箇所を、彼の言語哲学・科学哲学的主張の「理路」「論理」に対してあくまでも「装飾」的であり、ウォーフの論述のコアは、彼の経歴が理系エンジニアであることの延長上にある合理的なものだと感じたためスルーした。この点を善意の解釈、好意的解釈への偏りだと批判されればその通りである。

 参考意見としてソーカル・ブリクモンの見解を見てみよう。

 

ニュートンの著作の九〇%は錬金術神秘主義を扱ったものだといわれている。しかし、それがどうしたというのだろう? それ以外のニュートンの仕事は、経験に基づいた合理的な議論にしっかり支えられているから、今日でも色褪せていない。同じように、デカルトの物理はほとんどが間違いだったが、彼が提起したいくつかの哲学的な問題は今日でも意義をもっている。もし、この本で扱う著者たちについても同じことがいえるのであれば、われわれの批判は枝葉末節にすぎないということになるだろう。しかし、もしもこれらの著者たちが世界的な名声を勝ち得たのが、学問的な要因よりもむしろ社会的な要因によるのであれば、また、彼らが言葉を操る達人で、科学用語のみならず難解な専門用語を巧みに濫用して読者を感服させてきたからであれば、この本で明らかにする事実が重大な反響を生むことになるかもしれない。

 

 上記は『知の欺瞞』*2からの引用である。著者らは「ニュートンの著作の九〇%は錬金術神秘主義を扱ったものだといわれている。しかし、それがどうしたというのだろう?」と言っている。ソーカル・ブリクモンはニュートンに対して善意の解釈、好意的解釈を行っているのである。それゆえウォーフに関しても、「ウォーフの著作の幾らかは神秘主義を扱ったものだといわれている。しかし、それがどうしたというのだろう?」と同様に言えるのではないだろうか。争点は、ウォーフの提起した問題や理論が、ニュートンの提起した問題や理論のように、現在でも学術的に評価できるのか否かにある。結局、山川は言語的相対主義、認識的相対主義の問題に立ち戻らざるを得ないのである。

*1:「言語と精神と現実」など

*2: アラン・ソーカル&ジャン・ブリクモン[著], 田崎晴明・大野克嗣・堀茂樹[訳]『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』, 岩波書店, 2000年, pp.10-11

山川賢一検証blogの中心思想

 一言で表せば、「データを歪めず提示しよう」という事になる。これは、文系・理系問わずあらゆる科学的思考の初歩の初歩、キホンであると思うがどうだろうか。山川にとってウォーフは論敵である。ウォーフの著作内容はデータである。論敵であろうと誰だろうと、その著作内容を歪める妙な切り貼り引用をしてはいけない。またネットバトルならまだしも、まじめに知的な探究を進める気ならば、引用部以外でも論敵の言わんとすることを十分に受け止めて、解釈を提示する必要がある。ポパーやレイコフといった大学者が好意的に引用しているウォーフの思想を、「オカルト!」の一言で片付けようとする不自然さに気付いてほしい。

 例えば散布図に用いるデータを恣意的に選んだり廃棄して、自分に都合のいい相関関係=「意味」を「構築」する研究者をあなたはどう思うだろうか。そういう事である。

 複素数太郎氏は次のように評している。

 

 山川がこんな滅茶苦茶な言いがかりをつけてくるのは私に対してだけではない。どかい(ラッコ)氏の 山川賢一検証ブログ *23を参照してもらえればわかるように、彼はまず自分の中で「そうであってほしい」あるいは彼自身が「こうでなければ理解できない」という結論を用意し、そこにたどり着くためなら発言の切り貼りや文脈の無視などのおよそ学術的に誠実とは言えないような姑息な手をふんだんに用いる。山川の不誠実さは 山川賢一さんと複素数太郎さんの「無批判に『「知」の欺瞞』を信じちゃう人が味方サイドにいるのはリスクでしかない」という話 からもわかる。山川はこの件で私に恨みを持っている*24ようだから、なおさら滅茶苦茶な言いがかりをつけてくるのだ。彼がソーカルとブリクモンの『「知」の欺瞞』における“ゲーデル不完全性定理の濫用についての批判”を文系向け一般教養科目で教えられる程度の論理学の基礎知識もまったく持たない状態で得意げに引用していたところに、私が「それもソーカルらの批判対象となり得る行為ではないか」と指摘を入れたのだ*25。これではポストモダニズム批判によってインターネットで名をあげてきた山川の面目丸つぶれである。

すべてを終わらせる2万字 - ひとなぐりこけし

 

 例えば、適切な引用を行っているポストモダン思想の研究者と、不適切な引用を行う自称・科学の味方がいるとして、私には前者の方がはるかに話が通じる相手に思える。こう言っても納得しない人間がいるのは驚きである。そんな人は、例えば「人民を解放する」という名の軍隊は人民を解放し、「正義のための戦争」と名付けられた戦争は正義のための戦争であり、「正しい歴史を研究する」という名の団体は正しい歴史を提示するという生き方でやっていっているのだろう。

 まあそこまで単純ではないと思うが「ポストモダン」相手だと、例えば進化論に好意的で、科学の味方として振る舞ってさえいれば、それで中身も科学的だと信じ込む人々が少なくないようだ。方法や過程などおかまいなしである。あるいは誰かさんを論壇政治の鉄砲玉にしている人間もいるだろう。そういう手合いは早く落ちぶれてほしい。

 とはいえ、私はさほど悲観していない。最悪、数十年後、数百年後先の冷静な時代に評価が定まればいいや、くらいに悠長に構えている。些末な事柄といえば些末な事柄なので、何もかも忘却されている可能性も大きいけど。